私には、生涯の相棒でありライバルがいた。


1978年のある日、私より1才上である十三スイミングクラブの土井


一成先生の発案で餃子を一緒に食おうということで曽根崎の眠眠に


呼ばれた。そこにもうひとりが合流してきた。私と同い年のピープル


西宮・木尾克己氏であった。我々3人は当時20代半ばの同世代で


あり、それぞれのクラブは私のいた淀川善隣館から枝葉を分けたク


ラブでである。創始者であった先輩方は「水虫会」という会を持って


おられ、年に一、二度集まっては交流を深められていた。我々は彼


らより一世代下でお呼びもなかなかかからない存在であった。


我々3人はその後、一ヶ月に一回眠々会議を重ね、主に競泳の話を


熱く語り合った。会はその後、先輩たちの作ってくれた繋がりの集まり


にちなんで、「七光会(ななひかりかい)」と名前を変え、新しい仲間を


徐々に加え40名近くになった。会場確保も難しくなり、その中から若


い世代はまた、新たな集まりを発足させるなどをし、七光会は発足か


ら4年後に一応終了した。


私は同い年の木尾克己氏とは、その後、いいライバル関係を続けさせ


てもらった。もちろんその頃のピープル西宮は全国有数の強烈軍団に


なっており、当時は私には遠い存在であった。


1982年11月、私は神戸スイミングスクールに所属し、その頃、兵庫


県スイミングクラブ協会の委員をしていた。ある事情でクラブをやめる


ことになり、委員長の木尾克己氏に報告をしにピープルを訪ねた。


そのとき私は別のクラブに就職が決まっていたが、木尾氏は私に、


「ピープルで一緒にやろう」というのである。


私はそれまで、


「打倒ピープルを目標にやってきた人間として、自分自身がピープル


にはなれない。」


というと彼は、


「何をちっちゃいことをゆうてんねん、我々の目標はニッポンや、お前


とやったら日本一になれる」


という言葉に心を動かされ、何日か後にピープル入社の意向を彼に


伝えた。


かくして、私はピープルに入社したが、木尾氏は支配人、私はマネー


ジャーとして業務を遂行する中で、競泳以外のことでぶつかることが


必然的に多かった。


2年後、彼との関係が修復不能と見た上司は私に転勤を勧めてくれ


た。それから私は、新しい人たちと出会い、新しい選手たちを発掘す


ることになるのである。


その何年か後、彼と会う機会があったが、別に悪い関係では無い。


彼が法政大学の監督をしていた頃、笑いながら私にこう言った。


「しまっちゃん。ほかの大学に行かせず、いい選手をうちにくれないか」


私はただ笑った。マジで言ってくれていたらみんな行かせたであろう。


私は今でも、あの時私に言った言葉を忘れていない。二人で一緒に


やったら日本をとれる。世界と戦えると信じている。


私にとって、生涯のライバルであり、相棒である。