「あんなに泣き喚く中学生の男なんて初めて見たぜ」
「何よ。正義兄ぃだってわんわん泣いてたくせに」
帰り際、頬を風船みたいに膨らませ、正義は「兄ちゃんには内緒な」と耳打ちした。赤く目を腫らしてるんだ、とっくにバレてる。そこまで気が回らないところはやはりまだまだ小学生な証か。玄関を出ると、廊下の照明が寿命間近の蛍みたいに消え掛かっており、いっくんは「やれやれ」と首を振った。
「先週から言ってるのに…大家さん、忘れっぽい人だからなぁ」
アパートから公園に向かう途中、僕は「2人は大丈夫だよ」と薄闇に合わせたトーンで呟く。照明の話を掻き消したのはあの懸命さが胸を締め付けたからだ。これ以上健気なものに感情を寄せればまた込み上げてきそうだ。
「そっか、やっぱり我慢してたんだな」
生まれ育った町、学校の友達、公平やキシモンたち、それらの全てから離れる寂しさと新しい環境に馴染めるかどうかの不安、僕は彼らの想いを代弁した。約束通り、号泣したことは除いて。正子からは何も頼まれていないが、近所の男の子との別れの辛さも言わずにおいた。
「悪いね、君に辛い役目を任せて」
「ううん、別に…」
缶コーヒーが放物線を描いて僕の手元に届く。「ナイスキャッチ」と声を弾ませ、自分の飲み物を選ぶ横顔は自販機のライトに照らされ綺麗だ。透けるような繊細さに拍車が掛かり、もう責めることは出来ない。まあ、僕がやると決めたのだから責めるつもりなど微塵も無いけど。
「いつ、引っ越すの?」
「3月の末かな。終業式以降だけど具体的な日にちはまだ決まってない。父さんの知り合いの人がトラックを出してくれるからその人の都合によるかな」
「そう…」
「来週からは少しずつ荷造りだ」
「手伝おうか?」
「そこまで気を回さなくていいさ」
荷造り。
現実を思い知るには最適な言葉だ。現実的なあまり、黙り込むしかない。
ゴクゴクと缶コーヒーを注ぐ音が耳を塞げば、不意に股間は反応する。この暗がりじゃバレないだろうけど…いや、いっそバレたら今度こそ衝動を解放出来るかもしれない。どうせ引っ越すのなら僕の洗いざらいをぶちまけても…って、それが出来ないからもどかしいんだよな、肝心なときだけ、理性はその存在を尖らせる。憎らしいくらいに。
「けど、いつでも来なよ。2人も喜ぶ。特に正子は君を呼べってうるさい」
「そうなの?」
「うん。もちろん正義もね」
下唇を噛みながら「じゃあいっくんは?」と、内心呟いた。必要とされるのは嬉しいけど、もし、正義と正子の存在が無ければ、僕は彼に何かを頼まれることも、家に呼ばれることさえなかったのだろう。こんな風に夜の公園に並ぶことも…
「夜風が冷えるし、そろそろ帰ろうか?」
夜風などどうでもよかった。
帰りたくなかった。
…だけど返事を待つこともなく、いっくんは僕から空っぽになった缶を取り上げると、大きな白い息だけを残し、ベンチから立ち上がった。靄みたいな白い息が彼の背中をぼやかし、僕は勃起状態のまま後に続いた。言葉にしなければ何も伝わらない、それでも、必死で念じた。実は彼には人の心が読める特殊能力があり…などというブラウン管の向こうの世界をなぞるように。
…つくづく馬鹿だ。我ながら。
それからの日々は走馬灯のように過ぎていった。感傷に浸る間も無く期末試験に向けての猛勉強が始まり(僕というより長谷部の意志だが)ヒロを取り巻く問題に関しちゃ相変わらず蚊帳の外、桑原や公平にいくら水を向けても「勉強に集中」の一言で沈没、「通知表が付けられない」の理由で美術や音楽の課題もやらされ、そういうのをスルーしてきた2学期を悔いる暇さえ無く、僕は遅れを取り戻すのに必死だった。
けど、それでよかったのかもしれない。あまりにゆっくりと過ぎる日々なら感傷の沼にどっぷりと浸かり、抜け出せなくなったと思う。どちらにしろぐちゃぐちゃな思考回路だ。なら、忙しない方がまだマシ…多分。
「最近、瀬川くん見てないけど」
「休みがちだから…」
「どうして?」
まばらに雪の積もった田畑を見渡し、僕は「さぁ…」と曖昧な返事をした。保健室が静寂を極めるようになってから瀬川くんはほぼほぼ不登校、首を捻る公平の気持ちは分かるが、彼の「理由」は僕にもさっぱりだった。
ストレートに言えば、彼は勉強のことなど頭に無い。つまり、期末試験の勉強に明け暮れる僕らの空気に居場所を失ったのだ。そりゃ、2日に1回は気まぐれな体育があるし、休み時間はのほほんとしたものだが、今振り返れば、桑原とヒロの一件を皮切りに瀬川くんの表情は険しくなった気がする。1度だけ、いっくんと彼の家を訪れたときは元気そうでハイテンションぶりを発揮したが、学校の話題になれば顔色は変わり、どうすればいいのか頭が痛い。
かといって、その立入禁止エリアに踏み込む余裕は無く、宙ぶらりんの状態のまま、3月に入った。
それは僕にとっても試練だった。期末試験が終われば卒業式に向けての準備が始まる。さすがに鬼婆も卒業式のスルーは許してくれず、僕は教室に入らざるを得なくなったのだ。当日だけならともかく、練習の段階から。
もちろん、ユリちゃんやクリリン、田村先輩の門出は祝いたいけどさ、この試練を前に僕の足…いや、全身はガタガタと震えた。仰向けで死に掛け寸前のゴキブリみたく不様に…
(続く)