護国神社 | とっちんのブログ

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鳥取縣護國神社

(ウィキペディアになかったので最後に鳥取県護国神社のあゆみを記載してます。ご興味のあるかたは最後までご覧ください。)








九二式重機関銃


御朱印がセルフでした。


鳥取県護国神社の歩み

鳥取県護国神社は、鳥取藩が明治元年(1868)11月12日に行った招魂祭を起源とします。その招魂祭は、12代鳥取藩主池田慶徳が祭主となり、慶応4年(1868)1 月に始まった成辰戦争で自藩のために戦い亡くなった戦没者を慰霊するためでした。藩の軍事調練場である古海河原(現・鳥取市行徳・古市

あたり)に仮祠を設置して、その祭典を執行しました。

明治3年(1870)5月の招魂祭は、鳥取市浜坂の代々山(現・鳥取市立浜坂小学校 )に招魂場を移し執行、同年 9月には同地に招魂社が完成しました。

しかし、同4年7月の廃藩置県によって、それまで藩内の戦没者を祀る招魂祭を行っていた鳥取藩はなくなりました。翌5年8月、鳥取県から旧藩主池田家へ通達があり、以後、池田家が招魂社を運営、春秋の招魂祭を執行することとなりました。同8年8月、明治政府の宗教政策により、官費をもって・運営されることとなり、「官祭鳥取招魂社」と改称しました。

明治12 年(1879)11月、鳥取市浜坂の代々山が祭典執行・参拝客に不便であるとして、鳥取市西町(現•鳥取地方検察庁)へ移転することとなりました。

しかし、同地は市街地に近いため、火災等による焼失の恐れがあるとして同30年11月に鳥取市上町(現・樗公園内梅園)へ移転することとなりました。

 その後、昭和14年(1939年月1日に内務省会により「鳥取県護国神社」と改称、同21年9月には戦後改革の煽りを受け、「因伯神社」との改称を余儀なくされました。

翌22年4月には、同17年に新築したばかりの本殿を含む社殿が焼失してしまいました。同27年1月には「鳥取県護国神社」と再び改称、同30 年には伊勢神宮より譲与された別宮・倭姫宮を移築し、本殿としました。同28年に行われた伊勢神宮の式年遷宮の際、使用されなくなった社殿の譲与を願い出たのです。

昭和49年(1974)、鳥取市浜坂へ新築・移転することとなり、平成 16年(2004) には浜坂移転 30 周年記念事業として社殿葺替以下の整備を行い、現在に至っています。