温泉人


    中本凌平監督の取材後、若手記者は颯爽と露天風呂に乗り込んだ。彼には、まだもう1つ聞かなければならないことが残っているように思えてならなかった……



若手記者の名は【黒沢幹】

高校時代に中本の活躍を間近で見ていた人物であり、覇桜学院内でのプロ選手活動引退後、その文才を認められて覇桜学院グループの記者部に所属を置いていた



    露天風呂に入ると、その立ち込める湯気の奥にぼんやりと映える中本の姿があった。決して判別できる要素があったわけでなかったが、この日は取材のために宿を貸しきっていたため、そこにいるのは必然的に中本意外あり得なかった。それでも、単騎で中本と対峙するという緊張が先走るあまり冷静な思考力を欠いていた黒沢にとっては、そんな理解にも時間を要する状態だった。




それでも意を決して1歩1歩慎重に歩み寄る。




その姿が大きくなるに連れて、彼の顔付き・表情が間違いなく中本凌平その人である事がよく分かった。その様は心地良さそうに否定るというよりも、精神を統一する修行人のような佇まいで、場の空気は完全にそんな中本の気配で支配されているようにすら感じられた。


自らを襲う畏怖を断ち切る覚悟を決めたように、黒沢は中本に声をかける



黒沢「中本さん、少しだけ宜しいでしょうか?」


中本「……?」


或いは本当に瞑想をしていたのか、その最初の反応は思いの外鈍かった。


暫しの沈黙が流れる……


その後、中本はその男が誰で何をしに来たのかを察して声を発した


中本「黒沢君お久しぶりなのでございます。(駅伝王者時間で)1000年弱ぶりなのでございます」


黒沢「僕の事知ってくれていたなんて…!でも丸2日ずっと同じ空間にいましたけど…(笑)」


中本「なるほど、記者になっていたとは驚きなのでございます」



からかっている訳ではなく、本当にそれまで記者団の中に黒沢がいたことを認識してなかったような雰囲気だった。



中本「それで、どうしたのでございますか?」


黒沢「中本さんに最後に1つだけ聞きたいことがあります。中本さんにとって、温泉と応援とはどういう存在なのでしょうか?」


中本「わたくし自身は陸上および駅伝に対して熱い思いを持っておりまして、それを伝えられる応援に大変魅力を感じているのでございます。

温泉は高田選手が好きなのでございまして、彼に付き合って一緒に行くこともございますし、体のりかばりーには非常に効果的でございます。この2つがあって初めて中本凌平なのでございます。


そしてその高田選手の勧誘についても、最初に声を掛けましたのは、小学校の入学式でございましたが、面談で温泉が好きと話しておりましたので、高田選手が大学に入学するまでにも何度か一緒に温泉に入りに行くこともございました。

しかしながらぷらいべえとでのことでございましたので、競技の話をすることはございませんでした。世間話や他愛もない話をするのみでございます。」



今や界隈有数の選手たる高田佑の温泉好きは夙に良く知れている所だが、それが勧誘時の話題種となるというのもまた2人の間柄らしい裏話だった。


そうして中本は取材で語った締め言葉を再び口にした


「わたくし達は皆さんが夢に向かって全力で取り組める環境を整えているのでございます。

その環境の中で皆さんご自身の力で自分の夢を叶えてもらえましたら、指導者としてこの上ない喜びでございます。

わたくしも皆さんの目標や夢が叶えられるよう監督として全力疾走でございます。」



本取材が終わったこのタイミングに於いては他愛もない内容ではあるのかもしれない。しかし、それを一対一の対話形式で聞けた事に、黒沢が意を決して切り込んだ意義があった。



黒沢「ありがとうございますm(__)m 本当にこれだけではありますが最後の最後に中本さんからお話を聞けて良かったです。」


中本「本当はうちに入学して欲しかった選手からいんたびゅーしてもらえて私も嬉しいのでございます。また機会がありましたら宜しくなのでございます。」



そう言うと、中本は露天風呂を後にした。


本の少しの余韻に浸った黒沢も、いざこれを記事に興さんとして立ち上がった。黒沢にとっては長風呂だったのか、僅かな立ち眩みが襲う。その瞬間にハッ気が付いて一言を漏らした。



「メモ取るの忘れた……」



しかし、憧れの中本凌平の言葉は確かにその脳裏に記憶されていた。夢のような一瞬を大切に抱きながら脱衣場という名の現実世界に立ち帰ると、足早に宿を去った。


「これから彼の人生についての記事を執筆できる」


黒沢にとっては待ち望んだ瞬間であった。

そして、中本伝の執筆という長い事業が幕を開けるのだった




                                                                ー終ー