OB選手として


対校戦から大学4年間を経て、中本・竹村両者はそれぞれ異なる道を歩む。大学で陸上を引退した竹村に対して中本は実業団に所属する形で競技を継続、この間得意の1500mで五輪入賞という日本初の快挙を果たすなど華々しく活躍していた。恐らくはそれも、「誰かのために」それこそ「志半ばで自分に夢を託して引退した竹村のためにも」という心意気が成した業でもあったに違いない



一方竹村も、選手としての活動を引退したとは言え、陸上競技そのものと縁を切った訳では無かった



「竹村は人の本質を見抜く能力に優れておりました。3年生の対校戦以降、本来の走りが出来なくなったゆえ、学生時代から指導者としての勉強や準備を始めていたのでございます。そして大学卒業後すぐに母校のコーチに就任し、現在は顧問を務めているのでございます。」



何と大胆にも、他ならぬ都大路走者大学のコーチを志願した。


再三紹介する通り、同大学は界隈有数の名門校である。こう言ってはタチの悪い比較に聞こえてしまうかも知れないが、地元の児童クラブチームや中学校の陸上部とはワケが違う。それでも当時の都大路夫妻は、竹村の「自分達の卒業以降も強豪としての地位を維持させる事ができたら」というその心意気に感銘を受けたという。


「大学を卒業する際、母校の活躍を楽しみにしていると竹村に話したところ、『りょーへーも現役引退したら、後輩達にその経験を伝えてほしい』と言われたのでございます。

当時は練習に顔を出して数十分あどばいすを話す程度のことかと思っておりました。しかしながら後からでも竹村聞いた話によると、竹村はわたくしにチームの指導をしてほしかったようなのでございます。」


これもまた、2人が共有した対校戦の賜物と言うところだろうか。

 

いつぞやの対校戦でも、額にハチマキ…と言うよりどう見てもサウナ用の手拭いを巻き、好物のコーヒー牛乳の特注ビンを両手に武装して熱烈な応援と檄を飛ばしていた姿があった。


選手としてもOBとしても存在感を放った中本だったが、その競技生活にも終わりの足音を覗かせ始める




中本凌平監督


「しかしわたくしが体の衰えにより、実業団を引退した頃に竹村から連絡がございまして、母校の監督を引き受けてほしいと言われたのでございます。」


それまでの明るい雰囲気が一転し、一瞬重い雰囲気に切り替わったのはこの一文が飛び出した時だった。


この時中本は、「指導など経験も知見もないから」と何度も断ったが、竹村からの熱烈な勧誘に遂に根負けし、コーチと言う立場を飛び越えていきなり母校の監督に就任した。普通ならば自我を保つので精一杯な状況だが、そんな疑問に対する中本の回答は飄々としたものだった



「都大路一族から監督を引き継ぐことになりましたが、突然母校の指導に加わったという意識はございませんでした。 お話した通り、竹村にも後輩達に経験を伝えてほしいと言われておりましたゆえ、実業団時代も母校のグラウンドにたびたび顔を出しては選手達の前でお話をしていたのでございます。

それに加えてわたくしにあどばいすをしてほしいと言ってくる学生もおりましたので、どういった選手が在籍しているかということやそれぞれの選手の特徴などはその頃からずっと把握していたのでございます。」


「それゆえわたくしが監督になった時にはすでにちーむの状況はよく把握しておりました。選手達もわたくしの事をよく知っておりました。

そのため比較的すむーずに監督としての業務に取り組むことができたのでございます。」




『最初から彼を監督に据えるつもりだったのだな』




それが、取材陣一同の最初の感想だった。


対外戦時の選手と中本の関係も、選手とOBと言うよりは既に選手とコーチという方が遥かにしっくりくる様子だった。もしかすると選手からすれば、「やっと都大路走者大学に戻ってきたな」という感覚だったかも知れない。



当の指導方法はと言うと、基本的には都大路時代のものを踏襲する形であったという


「選手との接し方でございますが、わたくしは選手達が主体となって競技に取り組むことが1番大切だと思っているのでございます。

そのため選手達に指示を出したりすることはほとんどございません。

レースになりましたら自分で考えて走れないといけないのでございまして、日頃からその感覚を身につけておくことが重要でございます。

それぞれの選手の練習の状況は把握しておりますので、どうしても必要だと感じた場合のみ声をかけるというのがわたくしの指導でございます。」


「全体みーてぃんぐでは選手達の前で話をすることもございまして、そこではわたくしの考えをきちんとお伝えするのでございます。

駅伝でございますと監督が選手を評価して区間配置を決定しますゆえ、その基準を普段から明確にし、選手達に伝えているのでございます。

駅伝の区間配置決定の発表の際はもちろんでございますが、記録会や合宿のたびにちーむ内の1位から最下位まで順位づけを行いまして、それぞれに理由をつけてお話するのでございます。

日頃から監督の評価基準やその理由をはっきりさせることで、選手達はどうすれば自分の目標を達成できるのかや、今の自分に何が足りないかを把握することができるのでございます。

わたくしは自分の考えをきちんと伝えた上で選手と接することを最も大切にしているのでございます。

駅伝の選手選考で不満の声が上がるちーむもございますようですが、わたくしのちーむではそういったことになったことがございません。」



「選手とコミュニケーションを取る」

昨今の指導要領としてこんな言葉をよく耳にするが、中本監督は既にOB時代からこれをクリアしてきてと言う前提があり、寧ろ話題を問わないコミュニケーション自体は当然と言う認識だった。彼の指導要領は、そのコミュニケーションについて「誰に何をどうやって明確に伝えるのか」と言う深堀を加えたものだった。この点は、先代の都大路夫妻の時代でも気付き得なかった部分であった。



更に中本監督はもう1つ重要な事を選手に伝えていた


「もう1つ選手を指導する際に大切にしていることは社会人になってからもそれぞれの世界でやっていけるように人間力を高めることでございます。選手達はそれぞれの目標を持って陸上競技部の門を叩いてくるのでございますが、ずっと陸上だけで生きていくことは大変難しいのでございます。

そのため、どの世界でもやっていけるような人としての常識や素養を大学のうちにきちんと身につけておいてほしいのでございます。」



我々には、これこそ中本凌平監督だからこその言葉であるように思えた。


実業団選手を引退してから少しの間は、監督も1人の社会人として社業に専念する期間があった。あからさまに語ることは無かったが、そこに五輪選手として活躍していた時代と引退して選手の肩書きを脱いだ後のギャップには少なからず苦しんだ事だろう。


また、大学入学時点で天地の差であった戦友、竹村との差も4年間を通じて逆転し、当初は練習の消化も苦しい状態から大学陸上を牽引する選手にまで昇華、対する竹村は怪我の影響も大きく、その地位を後退させ、遂には実業団やプロへ進むことも無かった。


そうした意味では、『トップ選手と言えども競技一本で人生を切り開く事は極めて狭き門である』と言うことを、その身と身近な人間の経験から誰よりも感じてきたと言える。この言葉には、我々に同行していた覇桜学院のOB選手も大きく頷く所であった。




気がつけば、日を挟んでの取材であったというのにその2日目の取材も夕刻を回っていた。これだけの時間同じ空間で質問攻めに答え続けながら空気1つ変わらない、どころか「次は何を聞いてくれるのだろう」と未だに目を輝かせる程中本監督の胆力は凄まじかった。


そんな取材を締め括るべく、我々は最後の質問を投げ掛けた



「今後の中本監督が、監督として描く大学陸上界での目標・未来図などありましたらお願いします」



「わたくしを必要としてくださる限り監督を続けたいという思いはございます。
ですがなんとしてもこれを成し遂げたいといったものはございません。あくまで主役は選手達でございますので、彼らの目標や夢を最大限後押しできればわたくしはそれで満足なのでございます。 」



少々意外な解答であったが、ここまでの中本監督の解答を見れば納得の受け答えと言えるかも知れない。


そして中本監督はこう続ける


「大学生という人生における大事な時期にわざわざわたくしのいる部を選んでくれたのでございますゆえ、彼らには一生の宝物になるような素敵な経験をしてほしいのでございます。

またこれから入学してくる未来の都大路走者大陸上競技部部員のためにも対外試合には出続けたいのでございますし、可能な限り全力疾走で指導していきたいのでございます。

わたくしはわたくしなりのやり方で大学陸上界を盛り上げていきたいのでございます。」



最後まで中本監督らしい言葉だった。


特に最後の『わたくしなりのやり方で大学陸上界を盛り上げる』という部分。


思えば今まで実例が無かった『監督自らが公の場に名前を出して活動する』という事を初めてやったのも中本監督だった。この活動は、中本監督という人間が一体どういう人物なのかを鮮明にし、大学陸上ファンへの愛着のようなものを持たせて親近感を沸かせる上で大きな効果を発揮し、強豪たる都大路走者走者大学のブランドイメージを更に鮮明化する上でも一役買っていた。実際そうして都大路走者大学の門を叩いたエリート選手も多かった。


そこに中本監督の『選手主体』『監督はあくまでその補佐』という独自の立ち位置と育成方針が加わることで、これまでも同大学の歴史を塗り替えるような名ランナーを輩出していた。これは正に監督の技量と選手の技能の併せ業があって初めて成したことだっただろう。



「ありがとうございました。中本監督の人となりを知ることができた取材になったと思います。今後とも覇桜学院はそんな監督の指導を1つの手本とし、またそんな監督が指揮する都大路走者大学ともよきライバルチーム、よき戦友大学としてあり続けたいと思います。この度は極めて色の濃い取材のお時間をありがとうございましたm(__)m」



「ありがとうでございました。わたくし中本について、ほんの少しだけ皆さまにお伝えできそうで大変楽しみでございます。

まだまだお話できることはたくさんございますので、またの取材をお待ちしているのでございます。」


そう挨拶すると、中本は飄々と帰路につく……事はなく、「待ってました!!!」と言わんばかりに宿の温泉へと駆けて行った……その瞬間だけは明らかに現役時代の走りが蘇っているように見えたのはここだけの話である。



記者A「凄かったな」


記者B「凄かったですね」


記者A「自主性を重んじるなんて事うちの上司にも1度見習って欲しいよなぁ…俺なんて『原稿!』って急かされてばっかだよ…」


記者B「それは先輩が遅すぎるからですよ…でもまあ確かにあんな上司欲しいっすよね。」


そんな事を言いながら帰り支度をしていると…


記者B「あ!そうだ!そう言えばもう1つ聞くことがあったので、僕今から温泉入ってきます!」


記者A「お、おい!今からかよ!?」


先輩記者の静止が始まるより遥か先に若手記者は駆け出していった。恐らくそのスピードだけは中本のそれとさほど変わらない…


しかして丸2日の取材はその幕を下ろした