脳天さん都合のよい時だけの神頼みで今年高校受験の息子のために合格祈願に龍王院脳天大神へお参りに行った。脳天さんは神社ではない。でも大神と言う。それならば正しい参拝の仕方はどうなんだろう?金峯山寺蔵王堂から長い長い石段を下り帰り道はこの谷底からまた石段を登るのかと考えると祈願成就のための修行のような気持ちになる。自分のからだにまとわりついた煩悩の塊をそぎ落とすように一段一段苦しみに耐えながら石段を登る。・・・、まぁとにかく・・・、頑張った自分に満足している。頑張れるのは健康な証拠だ。
歳旦祭その時間になると、人々が集まって来て 火に薪を焼べることから始まる。 物置からホウキやバケツ、雑巾を出す。 湯を沸かしてから飾り付けをする。 準備が整うと宮総代の挨拶があり、歳旦祭が始まった。 今年私は当家があたっている。 それは信仰の自由とか、個人の権利をこえた順番というかたちで回ってくる。 意味があるのか?必要なのか?という疑問を抱きながらも いつの間にか神社という空間に溶け込んでいく。 大切なのはそれを必要と感じる人々のために、世話をする人間が必要だということだろう。 世話をする人間がいなくなった隣の村では、昨年『宮じまい』というかたちで神社のまつりごとをやめたそうだ。 それも仕方がない時代なのだろう。 近くの寺から除夜の鐘が聞こえてくると、 新しい年が始まった。 あけましておめでとうございます。 本年もよろしくお願いします。m(__)m
大晦日の雪仕事に追われたらしんどいから 追われぬように先々にやって行こうと思いながら 現実はやらなければいけないことに追いつけず 雪の降り始めた大晦日に、 できるところまでで諦めようと一年の最終日を迎える。 来年は私の運勢はさほど良くないらしい。 でも、良いと言われた年でさえ それなりに過ごしたのだから 来年もそれなりに過ぎていくのだろう。 昨年の大晦日は、なんだか新型コロナウイルスがあぶないらしいと 若干あまく考えていたが ずいぶん酷い状況になった。 ワケのわからない名前でごまかしたが、 『チャイナウイルス』は、 そしてその国は地球を蝕んでいくのだろう。 雨が降ろうと雪が降ろうと 生きていくものは、適応していかないといけない。 身についた当たり前の習慣や風習や思想は過去の遺物だ。
夢の途中「メタセコイアが見たいねんー」嫁は1年にひとつずつ夢を叶えていきたいと昨年はカフェをはじめた。そして今年はメタセコイアの並木道を見に出かけた。真っ直ぐな道。自然にできあがる美しさもあれば人が手をかけ作り上げた美しさもある。真っ直ぐな道。それはきっと夢の途中。まだまだ続く真っ直ぐな道。虹の架け橋も渡りたい。終わりのない夢の途中・・・。
つなぐために穴を開ける神様ってホントにいるの?神様がホントにそうしろって言ったの?信じる人がいれば信じない人もいる。でも、信じていなくても信じている人のために信じているふりをする。今のところは・・・。○○しなければいけない。○○はしてはいけない。当然のように言い伝えられる『しきたり』がある。老人たちは慣れ親しんだ『しきたり』の知識を自慢げに話す。そこにはどんな根拠があるの?そうしなければならない理由って何?本当にそれって必要なの?きっと誰も納得のいく説明などできないと思う。当たり前の常識は、目に見えないウイルスによって崩壊した。今まで強制されてきたことが、その場の解釈でなくてもいいらしい。なんや、神様が決めたことじゃなかったんや・・・。知っていたけど。きっと私のような面倒くさい人間は平穏な集落には厄介者だろう。もう次の世代には引き継がれないことが実際におこりはじめている。今こそ、つなぎ止めるために穴を開けるべきだと思う。