広瀬すずさん主演ドラマ。
ツイートしましたが、まとめ。
スチュワーデス(CA)の今昔を少し語ります。
私が知っているのは両親、従姉、自分の三時代。
両親が入社したのは昭和40年代、従姉の入社は50年代半ば、私、平成(就職氷河期)です。
母が入社した昭和40年代はどんな時代だったのか紹介します。
沖縄へはパスポートが必要でした。
1米ドル360円。
今は、1ドル105円前後ですね。
昭和40年代はプロペラ機や中型機から大型機材(ジャンボジェット機、B747型機)へ移行していく時代でした。
母は森英恵さんのミニスカートより一つ前のブルーの制服の時代に入社しました。
森英恵さんデザインのミニスカートの制服になった時、靴に付いていた赤の丸い装飾が足の甲に食い込んで痛かったのだそうです。
会社指定のストッキング(クリスチャン・ディオール)が沢山支給されていたんだそうですよ。恵まれていますね。
私が入社した時は故君島一郎氏デザインの制服で千鳥格子のジャケットが好評でした。
当時は昭和の佳き時代の名残を有していまして、制靴、制帽は皇室御用達のメーカーだったのです。かねまつとベルモードです。
オーバーナイトバッグもハンドバッグも牛革で高級感がありました。
一式揃えると相当な価格になると聞いた事があります。
さて、母の時代の話に戻ります。
母は高卒で入社を試みようとして祖父母の反対を得ました。
理由は前年に他社の航空機事故があった事と今時女の子でも大学出ないと、と言う理由からです。
高卒での就活を断念した母は2年後新卒採用が無かったので短大卒業後半年で既卒で入社しました。
最短ルートでスチュワーデスになりたかったんですって。
当時から既卒は当たり前だったのですよ。
その時の母の面接衣装は本人手作りワンピースです。
母曰く、今で言う巨乳だったそうで、バスト部分にタックを取り立体的なデザインに作ったとの事。
自分の良さを出せる服装は重要です。
因みに私は三種類のスーツを準備しました。
紺のノーカラースーツ、黄色の半袖ノーカラースーツに白パンプス、白のハンドバッグ、ピンクのノーカラースーツです。
ノーカラースーツを選んだ理由は首が長く見える様にです。
ジュンコ・シマダやungaroのハンドバッグを持っていきました。
A4サイズのビジネスバッグを使わなかった理由は背が低く(160cm)で大きなバッグを持つとバランスが悪いから。
これは、母の戦略です。
黄色のスーツの時は白の象牙調のイヤリングを選んだのも母の戦略です。
母は私の良きアドバイザ兼プロデューサーでした。
母曰く、筆記試験は数学で一問解けなかった問題があったけど他の教科は全部解けたと。
その中に「お味噌汁の作り方」を問う問題があったのだそうです。
当たり前の事を当たり前に出来る人材を求めていたのでしょう。
才色兼備、良妻賢母の要素求められていたのかも知れません。
当時のファーストクラスではお客様の前でお皿に取り分けるサービスが主流でした。
お箸が綺麗に持てる、サーブ様スプーンやフォークが扱えないといけなかったのですね。
お食事の素材から和食、洋食のマナーやサービスの仕方、受け方が分かる家庭に育った人材である事も求められていたのかも知れません。
募集要項に容姿端麗との記載もあった時代です。今では女性差別とされる文言は記載出来ないですよね。
身長の記載の代わりにアームリーチが募集要項に加わりました。
求める事は高い位置に収納されている物の出し入れに支障ない事なのですが、体格差別と取られる表現を避け、業務に支障ないアームリーチと言う表現に変わりました。
又、これには健康上の理由もあります。
背伸びをして高い場所にある重たいものを毎日出し入れすると腰痛になりやすいからです。
労災防止の観点から身長制限(アームリーチ)が設定されています。
入社訓練で言われた事は「皆は将来子どもを産む身体ですから、腰痛には気を付けて」、この台詞は何度も聞きました。
私の新卒の採用試験でもアジア系の会社で一社、容姿端麗、見える部分にタトゥーが無い事、傷痕が無い事が明記されていました。
グルーミングは今でも重要視される項目かと思います。
故に伯母達から母は「みーちゃん(母のニックネーム)が受かる訳ない、(募集要項に)容姿端麗って書いてあるやん」と言われたそうです。
家族の予想を裏切り母は内定を頂き入社する事となりました。
当時は空港ではなく、飛行場と呼ばれていた現在の大阪国際空港から羽田に向かったのです。
採用に関する話は一旦これまで。
次回に続くかは未定です。