ドクターがなにかの本で「現代にあらゆる宗教を包摂した超宗教を物語で創るべきだ」と言っていましたが、それをもう先駆けて宮崎駿や庵野秀明がやっていた。

おそらくドクターは宮崎駿の内部表現のコンテンツについてについてあんまり造詣が深くないのでしょう。

まあ、そういうことでまたこの前観てきた『千と千尋の神隠し』から考えていたことを書き綴っていきたいと思います。僕の韓国の女子の友人に「おんなじものをまた観るの?」って言われたことがありましたが、僕としては内心「馬鹿じゃねぇか?」とか思ったりしてましたね。ハッキリ言って、一般論的には韓国のように流行に乗るだけで表層のコンテンツに右往左往されるようではいつまで経っても人生で本質を掴めることはありませんし、その先から得られる本当に豊かな人生は歩めないでしょう。

日本も最近はかなりスマホなどに流されて、2010年頃まではまだあった日本の良さがどんどん失われている気がして、このままだと日本の伝統工芸や職人の技術たちが途絶えるのではないかと本気で心配しています。日本にはかなり多くの外国人たちが、「この日本の職人技術を人類のために滅ぼさせてはならない」と日本で職人をやっているのです。あまり稼ぎも良くないのにですよ?そういう人たちのほうが、よっぽど僕から言わせれば日本人ですね。よく和洋折衷も立派な日本文化だと言いますが、中には東洋と西洋の文化には相容れない・コンフリクトするものもあることを認識すべきでしょう。もちろん、ヨーロッパには数多くの素晴らしい文化が花開いており今も脈々と受け継がれています(特にクラシックやオペラなどは凄まじきものですね)が、アメリカなどは本当に薄っぺらいものしかありません。まあ、歴史が浅い国なので当たり前ですが。だから、アメリカは現代のマネー経済の資本主義を始め、かなり自殺者も実は多い国であり、そんな国をそっくり見習うべきとは思えません。

早くそれぞれの宇宙を取り戻し、フラクタル構造を再構築する日が来ねばなりません。僕たちもフラクタル構造をきちんと数学的に学んだり、それをプログラミング言語で実装してみたりして実際に行動に移すことが必要です。

やはり、東洋やヨーロッパの文化にはアメリカのような一時の美しさとは違い、春夏秋冬の変化の無常さを包摂したコンテンツが含まれていると思うのです。

さて、皆さんは一番最後の不思議な絵を覚えていますか?


この写真ですが、これは川に流れた靴を幼い千尋が取ろうとする際の追憶のシーンのカットですが、実は絵コンテ段階ではこれではありませんでした。


これが絵コンテ(脚本の役割)ですが、左が冒頭の花束のカットで、右が一番最後の「おわり」の絵で流れるはずだったものです。(知識がないと見えないことを思い知らされた瞬間でしたw)

一見、このカードは同じに見えますが内容は全く持って違います。


これが一番最初のシーンに流れるカードですが、そこには「ちひろ、元気でね。また会おうね。理砂」って書かれています。でも、よく見るとラストの絵コンテでは下半分が花で隠れて、「元気でね」となっているんです。

ファーストシーンでは「理砂」って名前が見えるところがちゃんと描かれているのに対して、ラストシーンはその名前を隠すような指示がなされています。

つまり、どういうことかというと、最初のシーンは「友達からの挨拶」なんですが、ラストシーンで見せる予定だったカードは「ハクやリンや釜爺などのお湯屋の人達からの挨拶」だったのではないでしょうか。

だから、名前を見せません。そんな「もはや誰だか思い出せない人達からもらったカードで、千尋が励まされる」というラストなんです。これは宮崎駿がこの『千と千尋の神隠し』の構造で示したかった本質のメッセージです。「名前も知らない人に僕らが励まされる」ということですね。

宮崎駿はスタジオジブリの仕事仲間の娘を自宅に招いた際に「この子のために映画を作ろう」と思って作り出したのですが、その子にしてみたらよくわからないおじいちゃんやその仲間のスタッフたちが作った映画を見て励まされる、ということです。

一番最初は友達から励まされるんだけど、最後は、誰かわからない人。これはこの世界そのものの本質ではないでしょうか。

常にご飯を食べる際には、そこにはお惣菜を作ってくれる人がいて、それを袋に詰めてくれる人がいて、という具合に誰かわからない人の貢献でここまで来ている。

個人的には、「また会おうね」が消えているのが泣かせられます。この「元気でね」だけで送り出される。そして、これで映画は完璧に終わるはずだったのですが、「やっぱり、これで終わらせるのは違う」と思ったのでしょう。あまりにも絵で見て分かりやすすぎるからです。宮崎駿はとにかく、あまり作品の中身を知られることを嫌います。

今言ったような「ファーストシーンとラストシーンがピッタリ合った構造的に整った映画を通じて、見ている人たちを励ます」のではなくて、流される靴を最後に見せて「忘れるな。お前は名前も知らないような誰かのおかげで生かされているんだぞ?」という強いメッセージを発信したかったかのように思えます。

大多数の監督はラストを決めてから映画製作やドラマといった制作を始めます。それに対して、宮崎駿や庵野秀明のような人は「頭のシーンはどうしよう?」から始まって映画製作に突入して、途中で諦めるのが宮崎駿。途中て諦めないのが庵野秀明。諦めた結果意外なものが出てくるのが宮崎駿で、諦めない結果エライことになってしまうのが庵野秀明なのではないでしょうか(笑)師弟関係ですね~。

ラストシーンを決めて動くと作り物っぽくなり、作り物故に逆に言えば思想的に辻褄が通っていたりとか、真っ直ぐしているのですごく深みのある哲学のような映画はできるんだけど、宗教のような映画は作れない。

それに対して、宗教っぽくなるところが宮崎駿と庵野秀明の凄さであって、逆に映画を思想っぽく哲学っぽく作ると高畑勲のようになるのではないでしょうか、、

僕としては、やはり宮崎駿のような超宗教的な作品を創りたいですね。そのためにも数学で未解決問題を解決する次元に行って、それ故に見えてくる整合性宇宙のブレイクスルーから直感で芸術作品に写像していきたいですね。いつまでも。数学宇宙に先があるのは整合性パワーの強い論理構造の「数学の宿命」です。