『千と千尋の神隠し』この題名自体に実は恐ろしい裏事情があったりして、、

まあ、それはさておき多くの人が、ハクは千尋と別れてどうなったのか疑問に思ってるのではないでしょうか。

仮説としては"完全な神として人間の世界から切り離された"です。何のことかと思うでしょうが、順を追って説明していきます。

なぜ、千尋は別れて引っ越しした家へと帰っていき、ハクはそのまま現世へと戻れなかったのか?

意外と、その抽象度で見ると答えが見えてこないのではないでしょうか。全くの別問題だと切り離して考えると良いです。

まず千尋に関して見ていくと、前のブログでも話した通りですが、字を書き間違えた(故意か、ハクの魔法による手助けか、偶然による書き間違いかはまだ検証が必要)完全に名前を奪われることはなかったため、豚となってしまった親の前で「私よ、セ、センよ。お父さん!お母さん!」っていうセリフのように忘れかけてしまうことはありましたが、そのあとハクが千尋に手渡してくれた服に挟まっていたお別れのカードに千尋の名前が書かれていたことで、千尋という名をもう一度強く取り戻します。これもハクが一方向的な一途な思いやり・愛のなせるものではないかと思っております。一応、契約書に名前を間違うように魔法はかけておいたが、それでもこの世界にいれば現世での記憶が薄れてしまう(そのためにハクは千尋に神々の世界の物を食べさせて消失から防いだ!!!それに記憶は自我・情報空間そのもの)ので名前を思い出させるために服をわざとあのタイミングで渡したのだと考えています。ハクがしつこく湯婆婆に千尋と両親を人間の世界に戻すように懇願していたのも忘れないうちに帰れるようにするためではないでしょうか。

ここで、あることが想起されます。名前を奪われたものは帰り道が分からなくなるというこの世界の法則をハクが述べていましたね。

千尋は完全に名前を奪われることはなかったために実は最後の"生命力を呼び醒ましたかテスト"(僕が名付けたww)に合格しなくても元の世界に帰れたと思います。坊はもちろんお湯屋の人間が皆千尋の味方ですからね。それなのに、きちんと神々の世界の決まりである"生命力を覚醒させて、ノイズ・無明から逃れる術を身につけたか"にしっかりと自分自身の実力で答えてみせて皆にサヨナラしたわけです。(二度と神々の世界に戻ることはできないので、実はかなり千と千尋は神々の世界の一部を覗いた千尋の切ない・あっけない物語なのですが)

一方、ハクについて見ていくと、ハクは千尋の死んだお兄さんなのではないかと僕は思ったりしています。(正直、これについてはまだ僕の直感であり、まだ論理が細分化されていませんのでいつか詳しく話すかもしれません。)

一応、それを公理・前提として見ていきましょう。
なぜそんなことを思ったのかというと、千尋のお母さんの素振りが夫と千尋で違いすぎるからです。お父さんに対してはイチャイチャというか夫婦らしくやっていますが、それに対して千尋には冷たく当たっています。これをなぜだろうと思った僕は繰り返し千と千尋の神隠しを見ていた時期にあることに気が付きます。

それは、千尋が川に落ちたことを思い出すシーンが2度ありますが、どちらとも千尋が裸で描かれていたのです。それに対して、川に伸びる子供の手は白いシャツの袖が見えます。これは矛盾です。千尋の裸はただ単に思い出したときの喜びの表現だ、みたいな安易なことを宮崎駿はしないと考えています。ちゃんと全部意味があるから、上半身裸で描いたのです。そう、上半身裸。つまり、川に落ちた当時、千尋は上半身裸で下はパンツ一丁で遊んでいたのではないでしょうか。実際に、そういう子が今でも川に遊びに行くといたりしますよね。少なくとも僕が小学生の頃や最近もそういう光景は見ました。それで遊んでいる最中に溺れてしまった千尋をお兄さんが救ってあげるが、その代わりにお兄さんが溺れて死んだ。その犠牲の階層性、つまり他人のために本気で身代わりになって死んだことで川の神様に成り上がり、「ニギハヤミ・コハクヌシ」になった。だから、千尋がハク竜にあなたはコハク川と言われたことで偽というか仮の名であるニギハヤミコハクヌシを取り戻したと同時に川の神様からも自由になった。だから、元の世界に戻る必要性もなくなったのではないでしょうか。釜爺が、「ハクは突然やってきて、川が埋め立てられてもう戻る場所がなくなったから湯婆婆のもとで魔法を学び始めた」みたいなことを愚痴ってましたが、川の神の名前を取り戻したことで純粋な死の世界(神々の世界)の神となり、現世との繋がりは消えて現実世界には戻れなくなった。まあ、それだけではなく名前を取り戻したことでハクも行ったはずの契約書からも自由になったのでおそらくあの後本当に湯婆婆の弟子は辞めたのではないでしょうか。何だかんだ宮崎駿は登場人物たちがハッピーエンドになることは望んでますが、ディズニーやピクサーの安易なハッピーエンドとは次元が違います。

最後、千尋にハクは「自分も元の世界に戻る」と言ってますが、あれはある種の"嘘も方便"というやつで、もし本当のことを言ったら、契約書の解消からくる現実世界と神々の世界の切り離しのタイムリミットに間に合わなくなってしまいます。だから、早く帰ってもらうために嘘をついた。もしかしたら、ハクも自分が千尋のお兄さんだったことを覚えていて、それでも千尋が傷つくのは良くないから黙ってたのかもしれませんね。

ハク「私は湯婆婆と話をつけて弟子をやめる。平気さ、本当の名を取り戻したから。元の世界に私も戻るよ」
千尋「またどこか出会える?」
ハク「うん、きっと!」
千尋「きっとよ?」
ハク「きっと、、さあ行きな!振り向かないで!」

こんなセリフの最後らへんのシーンがありましたが、ここで最初は強めに自分の願い、つまりもう一度千尋に再会したい煩悩を言葉に込めて強めに"きっと"と言いましたが、千尋に「きっとよ?」とプッシュされたときは弱々しい声というかせつなそうに言ってました。そして、決して振り向かないように釘を指しておいて、繋いでいた手を離していくのですが、千尋と別れた直後の手が物凄く名残惜しそうにゆっくりとフェードアウトしていくのがかなり自分の中では感極まります。宮崎駿曰くあの手が離れるシーンは「永遠の別れ」を意味しているそうです。何回か泣きましたね。宮崎駿がよく、「目の前で起こっていることは二度と起こらないと思った方が良い」と言いますが、まさに一期一会というやつですね。下は別れの際のシーンですね。ハクの笑顔のような内心悲しいようななんとも言えない顔がグッと来ました。




そう見ると、日頃の日常はまさに奇跡の連続のように見えてきます。本当に感謝の気持ちが湧いてきますね。日々、ゴール設定しながら邁進していきたいと強く心に再度刻んだ映画でした。