歴史の事実は曲げられない・・・ 残虐の過去(4) ~モンゴル軍の侵入 | akiraのブログ

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 歴史上の大帝国を見てみればわかるように、侵略と周辺国の隷属の繰り返しであったことがわかる。

 

ギリシャ・ローマ文明の精華もローマ軍によるカルタゴの殺戮と破壊によって大きく損なわれた。

 

 

カルタゴとアレキサンドリアにあった世界図書館の消失によって、ギリシャの哲学といったら

 

 

残った書籍のプラトン、アリストテレスくらいしか後世に伝えられなかったわけだ・・・。

 

 

同じことが、古代文明の集積地のバグダッドで起こった。モンゴル軍の殺戮と徹底的な破壊によって

 

 

原子爆弾を落としたようなともいわれている。 当たり前だが、違うのは放射能が残らなかったこと

 

 

くらいで、文化遺産の継承の断絶が後々まで響いたはずなのだ。

 

 

残虐の歴史でいうと、近代とは違って一時的にモンゴロイドが一部の白人を隷属、支配したことになる。

 

 

日本には、鎌倉時代に元寇として到来したが、壱岐対馬の人々がどうなったのか、

 

 

日本人として意識的でなかったのならば、韓国の対馬に対する領土的野心にさえ、

 

 

反論できなくなってしまうだろう。

 

 

 

 

⇒(引用)

 

“タタールのくびき”って何?

 

“タタール”はモンゴル人、“くびき”は牛馬に車をひかせるため首にかける横木のこと。ロシアがモンゴルに征服され、牛馬のように扱われた、という意味。チンギス=ハンの孫、バトゥにキエフ公国は滅ぼされ、ロシア全体がキプチャク=ハン国に併合されました。以後 200年、ロシア諸侯たちはハンに対する貢納を義務付けられ、ロシアはヨーロッパから切り離されました。このモンゴル時代に、ハンにうまく取り入ってハンの娘と結婚し、ロシア諸侯の代表のような地位を獲得したのがモスクワ大公でした。モスクワにはモンゴルの影響が色濃く残り、クレムリン宮殿の名も、モンゴル語のクリム(砦)に由来します。このモスクワ大公がモンゴルに反逆し、ロシア帝国を建国するのです。

“モスクワ大公はどうしてモンゴルを裏切ったの?

東ローマ帝国がオスマン帝国に滅ぼされた(1453)からです。東ローマ最後の皇帝の姪と結婚していたモスクワ大公イヴァン3世は “東ローマの後継者”“ギリシア正教の守護者”と称し、皇帝(ロシア語でツァーリ)の称号とローマ帝国の紋章(双頭のワシ)を使うようになりました。これまではモンゴルのハンの代理人としてロシアを治めていましたが、これからは自分が皇帝になったわけです。1480年、イヴァン3世はモンゴルへの貢納を拒否して独立。これがロシア帝国の成立です。

モスクワ大公は、モスクワ周辺だけを領地とする一諸侯にすぎません。対立する周辺諸侯を徹底的に弾圧し、雷帝と恐れられたイヴァン4世の時代になって、ようやく帝国の名に値する領土をもつようになりました。イヴァン4世はさらにコサックのイェルマークに命じてウラル山脈の東のシビル=ハン国(キプチャク=ハン国の分家)を征服します。シビル=ハンは、シベリアの語源です。

初期のモンゴル軍は抵抗した都市を徹底的に破壊して、その住民を殺しまくった。恐怖の軍隊です。また、その残虐さを強調することで宣伝効果をねらったようです。


ホラズム攻略ではある都市を降伏させるとその住民すべてを奴隷にして、次に攻略する都市まで引き連れていく。そして、その奴隷たちを攻撃の第一陣として使う。または、攻撃のための土木工事に死ぬまで働かせた。抵抗すれば後ろからモンゴル軍に殺されるので、前進して仲間に対して攻撃を仕掛けなければならない。退くも地獄、進むも地獄です。


残虐さというのは、敵の抵抗を引き起こすもののようですが、モンゴル軍のように徹底的にあっけらかんと残虐だと、抵抗する気もなくなるものなのかもしれません。


チンギス=ハーンが晩年に将軍たちを集めて宴会をやった。チンギス=ハーンは将軍たちにたずねました。「人生最大の幸せは何か。」


将軍たちは「草原で家族に囲まれてのんびり遊牧をすることです。」と答える。


「それは違う。」チンギス=ハーンは言った。「人生最大の幸福は、敵を思う存分撃破し、駿馬を奪い、美しい妻や娘を我がものにし、その悲しむ顔を見ることだ。」

町々を攻撃し、直接何の関係もない領民を虐殺した。
  自主的に城門を明け渡した町は容赦され、住民を城壁の外に出し、モンゴルの兵士は数日間好き放題に略奪した。3日間抵抗してから降伏したタシケントの西のベナケットでは、兵士は全員処刑され、職人(中世では馬10頭分の価値があった)は連れ去られた。若い男はモンゴル側に連行され、次の戦闘で盾として先頭に押し出され、敵の攻撃のショックを吸収する部隊として用いられた。

・ブハラの町は抵抗した。そこの傭兵は夜になると逃亡したがモンゴル軍はこれを捕らえ全員処刑し    た。それから町に入り略奪し、女は夫の見ている前で強姦され、最後に町に火がつけられ焼け落ちた。
・ サマルカンドの町は1220年に包囲されたが、約5万の軍隊が駐留し城壁は難攻不落に見えた。チンギス・ハンは捕虜を先頭に押し寄せてから、負けたと見せて退却をよそおった。追撃に出てきた守備軍をモンゴルの大軍が包囲し、5万の軍はなぶり殺しにされた。町の傭兵部隊の半分がモンゴル軍に寝返り、砦にたてこもった軍は飢えて出てきた所を殺され、次に、寝返った部隊も処刑された。チンギス・ハンは裏切りを嫌悪した。
  トルコのスルタンは恐怖だけが先に走りまともなことは何もできず、とにかく逃げて、最終的にはカスピ海のある島で疲労によって衰弱死した。
・ モンゴル軍はサマルカンド近くのオアシスで一夏を過ごすと、オクサス川沿いの町を攻撃し、住民を一人残らず虐殺した。兵士はすべての死者の腹を断ち割って飲みこんだ真珠などを取り出した。
・ バルフの町は初めから降伏し、将軍ジュベに事前に恭順の意を伝えていたにもかかわらず、周りの町々への見せしめのため、全住民を城壁の外に集合させ、それから全員が虐殺された。
・ アフガニスタンのカリスミア帝国への攻撃中に、バミヤン渓谷でチンギスの孫が命を落とした。そこでチンギスは、その地の生き物を胎児から動物に至るまですべて殺すよう命じた。
 四男のトルィがイラン東部のコーラサンのニサに侵略した際、住民全部を数珠つなぎにして城壁の外に出し、モンゴルの兵士が取り囲み矢を射かけて惨殺した。メルプの町では全員の首を切らせて、それぞれ男、女、子供の生首の山とした。

・ 将軍ジュベは、コーカサスとロシアの地へ派遣され、カリスミア帝国の地ではないにもかかわらず、同じように侵略し住民を惨殺した。カスピ海の北の草原地帯では、山岳部族の三つの部族の連合体から攻撃を受けたが、ジュベはこのうちの一つであるキプチャク族に 大量の略奪品を与え 同じ遊牧民族のきずなの言葉で巧みに買収して、他の2つの部族を滅ぼした。その後でジュベはキプチャク族に襲いかかって惨殺し与えたものをすべて奪い返した。
  ドニエプル川流域の現在のアレクサンドロフ近くで、約8000のロシア軍を撃破した。ロシアの皇子の一人は砦に逃げ込み、ジュベは彼が故郷へ帰るための安全な条件を提示して 皇子一行が砦から出た所で虐殺した。 このように、チンギス・ハンのきびしい規律で 裏切り行為を許さなかった

 

 

・・・・・

 

 

 

なお、話はそれるが韓国料理の特徴のピリ辛、焼肉などの肉食の文化はモンゴルの征服によって

 

 

もたらされたものだといわれている。遊牧民など、家畜の処理になれている民族だからといって、

 

 

人体を切り刻んでいいという伝統はないものだと思うのだが、どうだろうか・・・ !??

 

 

 

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