「神田明神 (神田神社)」 の 「御本殿」 から 右手の 「獅子山」 を拝見すると、その足元に

   「神馬舎?」 (「あかり号」 というポニーが 防寒服を着て居ますが、ただ柵だけですからね、

   前に逃げられた事がありましたよね)・・・「あかり号、取材拒否」 と云う事で。

 

   「銭形平次の碑」

   「野村胡堂・銭形平次捕物控」 の主人公 「銭形平次」 は、「神田明神下、台所町」 の長屋

   に 「恋女房・お静」 と暮らし、明神界隈を舞台に活躍した事から 「日本作家クラブ」 が発起

   人となって碑を建立・・・・碑の足元に 「投げ銭・寛永通宝」、隣には 「がらっ八・八五郎」 の

   小さな碑が立っています。

 

 

   「國學発祥の碑」

   「伏見稲荷大社神職」 の出である 「荷田春満」 は、「神田明神神主家・芝崎好高」 を門弟

   とし、その邸宅を講義の場として 「國學」 の普及・発展に努めたと云います。

   また 「春満の弟子・賀茂真淵」 も 「神主・芝崎家」 の邸に一時住んだそうです。

   「春満、真淵、神主・芝崎ほか明神神職」 による 「國學」 の発祥を記念して昭和53年建立。

 

 

   「祖霊社」

   2004年・平成16年創建、「神田明神の氏子・崇敬者の先祖」 を祭神とする。

 

 

   「合祀殿」

   江戸時代に 勧請された 『籠祖神社・八幡神社・富士神社・天神社・大鳥神社・天祖神社・

   諏訪神社』 の七社は 「関東大震災や戦災」 によって社殿を焼失し、以来 『神田明神』 の

   「本殿」 を 仮御座として奉斎されていたが、「平成の御造替事業」 の締め括りとして 七社

   の 「御神霊」 を奉鎮する 『合祀殿』 を新たに御造営されたのだそうです。

   境内に在る 「鳥居・水盤・記念碑・狛犬・常夜燈・玉垣・石標等 九点の石造物」 は 「籠祖

   神社・籠祖講」 の奉納と思われます。

 

 

 

 

 

   「浮世絵師・水野年方 顕彰碑」

   「神田明神」 の氏子 内神田紺屋町・左官職の家に生まれ、「水野家」 の養子となり 「通称

   粂次郎」 「応斎・蕉雪」 と号し、「月岡芳年」 の門人として 美人画・歴史風俗画など浮世絵

   を学び、更に 「南画」 を学び 「岡倉天心・横山大観・菱田春草」 等と共に 「新しい日本画」

   の創作を試み、「錦絵代表作 三十六佳選・今様美人等のシリーズ」 を残したそうです。

   また 「門人育成」 にも優れ 「鏑木清方・大野静方・池田輝方・榊原蕉園」 等の 門弟を育て

   たが、数え43歳と云う若さで亡くなったとの事です。

 

 

   「千社札の碑」 と 「三の宮奉安庫 (鳳輦庫)」

 

 

   「三天王と 三稲荷」 等々が並んでいます!

   「三天王:江戸神社・大伝馬町八雲神社・小舟町八雲神社」 の 「御祭神:建速須佐之男命」

   「三稲荷:末廣稲荷神社・三宿稲荷神社・浦安稲荷神社」 の 「御祭神:宇迦之御魂神」

 

   「末廣稲荷社」

   創建年代は不詳ながら 1616年・元和二年とされる 「出世稲荷」 で、現社殿は 1966年・

   昭和41年 「東京鰹節類卸売組合有志」によって再建されたとの事です。

 

 

 

 

 

   「金刀比羅神社 (金刀比羅大神)」 と 「三宿稲荷神社」

   「金刀比羅神社」 (祭神:大物主神・金山彦命・天御中主命) は、1783年・天明三年に

   「豊嶋郡薬研堀 (現在の 東日本橋2丁目)」 に創建され 「隅田川船人・守護神」 として

   信仰された独立の神社であったが、1966年・昭和41年に宗教法人を解散して現在地

   に遷座し 「神田明神の末社」 になったそうです。

   「三宿稲荷神社」 の創建は不詳であるが 江戸時代より 「神田三河町氏神」 として奉斎

   され、後に 「神田明神十二代神主 芝崎美作守」 の邸内に祀られていた 「内山稲荷」 と

   合祀され 「神田明神・末社」 として奉斎され、1966年・昭和41年に再建された 社殿に

   「金刀比羅大神」 と共に御鎮座された。

 

 

   境内の 「水盤」 は、1805年・文化二年に 「伊勢屋治兵衛」 によって奉納された とか

 

 

   「鳳輦・神輿 奉安庫」

   「一の宮・大己貴命」 が乗られる 「一の宮鳳輦」 と、「二の宮・少彦名命」 がお乗りになる

   「二の宮神輿」、「神田明神大神輿」 を奉安しているのだそうです。

 

 

 

   「浦安稲荷神社」

   往古 「江戸平川河口近くの漁村住民」 によって祀られ、天正年間 「徳川家康公 江戸入府」

   による 城下町整備に際し 「鎌倉町」 の成立と共に その守護神として勧請され、1797年・

   寛政九年に 「町内崇敬者・大工職 平蔵」 によって社殿が造営され 「浦安稲荷神社」 として

   伝えられたが、1843年・天保十四年の 「江戸城拡張・町割改め」 に伴い 「神田明神境内」

   に遷座され、更に 「明治維新及びその後の戦火災」 に依って 復興出来ぬ 「内神田稲荷社・

   五社」 と合祀した との事です。

 

 

   「三天王一の宮 江戸神社」

   702年・大寶ニ年 武蔵国豊嶋郡江戸 (現在の皇居内) に創建された 「江戸最古 地主神」

   で 「江戸大明神・江戸天王」 と称され、鎌倉時代には「江戸氏神」として崇敬されたとの事。

   その後 「江戸氏」 が 「多摩郡喜多見村」 に移住した後も、「太田道灌」 築城より 「上杉氏・

   北条氏」 等が城地に祀ったが、1603年・慶長八年の 「江戸城拡張」 によって 「神田明神」

   と共に 「神田台」 に移り、更に1616年・元和二年 当地に遷座された。

   江戸時代中期以降は 「牛頭天王」 と称され、1868年・明治元年に 「須賀神社」 と改称され

   1885年・明治十八年に 「江戸神社」 と復称されたそうです。

   また、この神社は 「江戸開府」 の頃から 「幕府の食を賄う 菜市」 が開かれ、貞享年間には

   神田多町一帯の 「青物商」 が相集い 「市場としての形態」 が整ったことで 「市場の守護神」

   として崇敬を受け、「現社殿」 も 平成元年に 「神田市場」 が 「大田区東海」 に移るに当たり、

   「江戸神社奉賛会」 が 「今上陛下御即位大礼記念」 として 「大神輿を御神座」 に再建鎮座

   したと云います。

 

 

   この 「江戸神社」 の左脇に、「力石」 と「角田竹冷の句碑」

 

 

 

 

   「三天王二の宮 大伝馬町八雲神社」

   江戸時代以前に創建され 祀られていたと云います。

   1615年・元和元年頃から行われた 「天王祭」 では、「神田明神・境内」 を発輿した後に

   氏子中を神幸 し、「大伝馬町の御仮屋」 へ渡御して還輿した事から 「大伝馬町天王」 と

   称されたのだそうです。

 

 

   「鉄製天水桶 一対」

   石製:八角形の基壇と連弁を模した台座

   鋳鉄製:高さ1.4mの天水桶・口縁に 「巴」 の連続模様

   「江戸・問屋仲間」 の一つ、日本橋界隈の 「太物問屋 (反物等の流通を一手に扱う商人)」

   が奉納したようです。

 

 

 

   「三天王三の宮 小舟町八雲神社」

   「江戸城内・吹上御苑」から「神田神社」と共にこの地に遷座されたとの事です。

   「小舟町 (貞享年間までは 「小伝馬町」)  お仮屋」 を有して、祭礼に際し 神輿が渡御された

   事から 「小舟町の天王」と称されたそうです。

   「天水桶」

   「塩干肴・乾物の流通を担った 魚問屋仲間・遠州屋新兵衛他十名」 が 1811年・文化八年

   に奉納したようです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

   「日本橋魚河岸水神社」 (祭神:弥都波能売命)

   「徳川家」 の武運長久と併せて 大漁安全を祈願する為に、魚河岸の先人によって 「武蔵国

   豊嶋郡柴崎村神田神社境内 (現在の大手町)」 に鎮座、元和年間にこの地に遷り 「大市場

   交易神」 と称され、その後 「水神社」と改称し 1891年・明治二十四年に 「魚河岸 水神社」

   と社名変更し 「日本橋魚市場・守護神」 として崇敬される。

   (「魚市場」 は 「日本橋」 から 「築地」 に移され、「築地中央卸売市場内」 には 「遥拝所」 が

   建てられています)