前回(その1)では、症状の捉え方により違いで起こるすれ違いについて摂食障害の厄介な部分である「自分で行っているように見える」点から書いていきました。

 

 

 

 

自分で行っていると思ってしまうと本当は病気が悪いのにもかかわらず、コントロールできない(やめられな い)当事者を責めてしまったり、当事者も自分で自分を責め続けてしまったりすることになります。

 

では、当時者も周囲の人も症状が出る当事者自身を責めずに病気と向き合うにはどうしたら良いのでしょうか?

 

 

それは、起きてしまったことをいかに“深刻に捉えず”“罪悪感を軽くできるか”が肝であると考えます。

 

それと同時に、嵐が来るのが分かっていれば対策を行うように、

症状が出たら“どうしたらこの困難を解決できるか”を考えることも重要だと感じました。

 

具体的に言うと、衝動が出てしまったときに過食(や嘔吐)に走らないようにするにはどうしたら良いか考えたり、普段からなるべく症状が出てこないように工夫したりするということです。

 

例えるとするならば、前者は頭痛の時に頭痛薬でいったん楽になるような方法を探すというイメージで、

後者はアレルギー症状が出ないようにアレルゲンを避けたり、感染症にかからないように予防接種や手洗いうがいをしたりする行為に似ています。

 

 

 

私の場合はその方法が自己表現するワークショップだったり、舞台を観に行ったりすることでした。

ワークショップや演劇を楽しむ時間は、常に食べ物のことについて考ええている私が唯一別のことを考えられる時間でした。

 

それらに集中している間はそれ自体に集中できたし(舞台やワークショップの間に食事はしないので考える必要がない)、その間に過食衝動が起きることはなかったし、

その舞台の前後にしっかり食べていて不安になった瞬間があったとしても、舞台やワークショップに参加している間は「食べちゃった」「太るかも」「明日からの食事はどうしよう」などなど、食べ物のことが頭を支配するということもありませんでした。

 

つまりこれは、過食衝動が出ないように「違うことを考えるための工夫」をしている状態です。

 

しかしワークショップに参加したり演劇を観たりするのならば遠出する必要があるので、外食は避けられません。

しかも都会はおいしい食べもの屋さんがたくさんあるので、数歩進めばすぐに食べ物が目を引きます。

 

そうすると必然的に「今日は食べる日」というスイッチが入って過食衝動に駆られるなんてことはしょっちゅうで、一人で歩いてしまえば絶対に過食して歩いてしまうという自信があったくらいです。

そこで出てくるのが、「衝動が出てきてしまったときにどうするか」という先ほどの例えでいう、頭痛薬のようなものです。

 

 

私にとってはそんなときもワークショップや演劇が頭痛薬の働きをしてくれたので、

もし無理やり過食衝動を抑えたとしてもそこにワークショップや観劇を挟んでしまえば過食衝動はいつの間にか収まっていることがほとんどだったし、

過食しそうな感覚が来ても「自分が納得できる体でお出かけしたいから」という強い思いが過食衝動を収めるストッパーのような役割を担ってくれる時もありました。(勿論効かない時もあります)

 

 

 

頭痛や熱などの病原性またはストレス性の病気や、嵐のような自然災害と違うところは、やはり出てしまう症状が“自分でやっているように見える”“普通であれば自分で辞められる”という部分です。

 

 

 

 

 

そういった複雑な面を説明するために、よくこの病気の捉え方として「病気をオバケだと思え」という表現が使われますが、

私は最近、それに名前を付けた敵キャラクターにしてしまっても良いのではないかと思いました。

 

なぜなら、オバケ理論同様、自分と当事者を切り離して考えるには“自分以外の何かにそうさせられている”と考えるのが大事だし、キャラクターとして名前を付けてしまえばそのように捉えやすいのではないかと思うか らです。

 

 

またキャラクターのような愛称をつければ、自分も周囲の人も症状を深刻に捉え過ぎずにいられるかもしれな いし、沈んだ気持ちが思わずフフッと笑ってしまうような、少しでも明るくやり過ごせる方法のような気がしたからです。

 

 

とりあえず私は、未だにたびたび訪れる過食衝動のことを『タベ郎(たべろー)』と名付けようと母と決め、実際私はこの考え方で何度か過食のパニックを乗り越えることができました。

母も私が「タベ郎来ちゃってる」と言ったら「あーそれは致し方なし!」と言って、喧嘩せずに過食を乗り越える事が多くなったように思います。

 

 

 

そんな楽しそうな雰囲気もあなどってはいけません。タベ郎なんて愛らしい名前を付けましたが実はかなり強いです。

 

だから、食べ物のことでいっぱいな頭の中をどうにかして押し出して入れ替えられるほどのインパクトあるものでなければ、すぐに食べ物のことに思考が戻ってしまいます。

しかも、食べ物のことを考えたり過食(多分嘔吐も)だったりがある意味“命綱”のような存在でもあるので、自分を保つためにあるものを考えないというのはかなりハードルが高いです。

つまり、うまくいく方法は探してもそう簡単には見つからないのが現実だったということです。

 

 

 

私がこのワークショップや舞台の魅力にハマった時期が発症してから 1 年もたたない時期だったので、実際の悩む時期は比較的短かったと言えますが、当時としては長い間見つけるために奮闘した記憶が強いです。

 

 

 

 

 

まず私が試したものは、勉強や対話でした。

それで気を紛らわせられる可能性はゼロではないですが、私の場合は勉強に集中できないくらい食べ物のこと でいっぱいだったし、対話しても食べ物のことが気になったし、結局体型や食べ物の話になって喧嘩になることも多かったので効果は感じられませんでした......

 

 

続いて行ったのは小さいころから好きだった読書。 しかしそれも物語に全く集中できなくて、食べ物のことを考える方が優位に立ってしまいました。

 

 

次に唯一好きで夢中になれていたロックバンドに着目して、しんどくなったときは音楽を聴くことにしました。

しかし音楽よりも食べ物のことが気になってしまって音楽はBGM化。

結局食べ物のことでいっぱいいっぱいになることは避けられませんでした。

 

一方、家で聞いているよりも音楽フェスに行くと全く違って、

食事時間が気になったり、フェス飯で過食してしまったりして時々精神的に乱れることはありましたが、ライブ中は食べ物のことを考えることなくその場を楽しむことができました。

 

 

もしかしたら、体を動かすのは食べ物に対しての意識を一転に集めてしまう防止に有効なのかもしれません。

本当は運動した結果も試してみたかったのですが(ライブで実感したから尚更)、主治医の先生にストップがかけられていたのでそれはできませんでした。

 

 

 

 

食べ物以外のことを考える、という意識づけはやはり専門家からしても有効な手段なようで、主治医の先生からも「食べ物のことを考えないようにする何かを作れるといいね」と言われていました。

 

 

しかし“意識をそらす何か”を探すように言われてから上のようなものを試してみましたが、結果は書いた通りうまくいかず、途方に暮れる毎日を過ごしていました。

 

 

 

 

 

そんな私がワークショップや舞台に出合ったのは、母が笑えなくなっていた私に笑わせようとして観させてくれたショーがきっかけでした。

 

日によってランダムに変わるメンバー、日によって違う生のパフォーマンス・トーク・内容。

最初は笑いたくても笑えずにしんどい気持ちはありましたが、それ以上に面白くて、何度も見たくなって、いつしか「次は何をやるんだろう」「次はこれがみたいなあ」とそのショーについて考える時間が出てきて、

合わせてそれに行くためのスケジュールや学校が終わる時間、電車の時間や写真・動画を見て余韻に浸ったり楽しみになったりする時間が増えていきました。

 

 

 

それが終わってしまってからも、もうすっかりショーなどの生のパフォーマンスの魅力から離れることができなくなっていて、そこにタイミング良くその関連でワークショップの参加募集があったので、私はすぐにそのワークショップに申し込みました。

 

 

今まで全くアウトドアなことはしない性格ではあったのですが、その時はインスピレーションが働いていたのか、なぜか私の頭の中では「やる」という選択肢しかなくて、半ば強引に母を巻き込みました笑

 

 

 

それからというもの、ワークショップに毎月通ったり、都会に出るにあたって出合った方々を通して舞台やほかのワークショップに参加したりと行動の幅も広がりましたし、いつの間にか考えることが食べ物のことではなくて「すきなこと」や「思い出」や「そこで出会った友人たち」にシフトしていきました。

 

 

また、母と一緒にお出かけして経験を積んでいくことで共通の話題ができ、母との会話の内容が“食事”ではなく“娯楽”の事や“自己分析・自己表現”の事について話すことが多くなりました。

つまり、好きな(になった)ことに夢中になって食べ物について考えている割合を少しずつ減らしていくことができたのです。

 

さらに母との関係性は私にとってとても重要な部分だったので、そういった面でも母も楽しそうにしているこの時間は、必要以上に相手のことを考える時間が減って(自分のせいで母に嫌な思いをさせたかもしれないと考える時間が少ない)良かったのかもしれません。

 

 

 

「好きなこと」は私のご褒美や目標のようにもなっていて、日常で過食衝動を感知したときに無理やり抑えても「この日に人と会うために過食しない」と決めると自然とストレスをため込むことが少なくなっていきました。

 

また、外に遊びに行ったときにできるようになったことが増えると「体重が増えても良いかもしれない」「もっと増やした方が良いかもしれない」と思うことが多くなってきて、それも体重増加に伴う不安な気持ちを薄れさせてくれました。

 

 

 

 

いろいろと考えることなく、こういったただひたすらに「好きなもの」「夢中になれるもの」はとても有効な手段だと思います。

しかし、そういったインパクトの強いものはなかなかすぐには見つかりません。(苦しいことでいっぱいいっぱいなら尚更)

 

しかも今自分の中で持っている好きなものでは、現時点で食べ物に勝てていないので、それ以外で新たに見つける必要がある可能性が高いような気がします。

(もしかしたら今あるものにもっと熱中するという方法もあるかもしれませんが)

 

 

それを踏まえると、今までインパクトの強いものを見つけられず、「好きなこと」を考える余裕がなかった私が良い方向へと進めたのは、

宝探しのように自分に合う方法をトライアンドエラーで繰り返していくことで、最終的に“演劇”や“ワークショップ”にたどり着いたという流れがあったからなのだと思っています。(私自身、演劇やワークショップなどのアウトドアなものにハマるとは思っていませんでした)

 

 

 

新しいことを始めるには、

きっかけ・勇気・エネルギー・時間ん・環境・お金・環境……など、いろいろな要素が必要になります。

 

 

私は今まで興味のないものに無理して挑戦しても、あまり極めることができなかったし長続きしませんでした。

さらに、無理して新しいことを初めてうまくいかずに続かない......を繰り返しているとだんだん「私はなにやってもだめなんだ」と思うようになりました。

でもよくよく考えてみると、本当にやりたい事じゃなかったり、それの魅力がいまいちわかっていなかったりすれば続かなくて当然です。

 

 

一方、今回のように何かのきっかけに便乗して自然とのめりこんでいって、「好きかもしれない」に身を任せた時の方がうまくいった感覚があります。

 

 

いろいろと話が広がってしまった気がしますが、

結局のところ「好きなもの」「熱中できるもの」を見つけることに関しては、タベ郎(症状)を近寄らせない一つの手段にすぎません。

 

 

 

大事なのは、症状の正体を見つめることだと考えています。 

 

 

症状の正体が当事者自身ではない何か別のもの(=タベ郎)だという認識で居られれば、 私自身も症状としてやってしまうこと自体に罪悪感を抱くことを軽減できたと思いますし、 周りの人もうっかり当事者の行動を責めてしまうことを防ぐことができたのではないでしょうか。

 

 

そして、症状という共通の敵ができる事で人自体が悪いのではなくて病気が悪いということになるので、一緒に戦うというイメージが作り出しやすいのではないかと思いました。

 

ぜひ皆さんが病気という敵に立ち向かう方法を見つけるために、私の経験や考察が一つの参考にしてもらえたのなら幸いです。