〇安岡正篤先生講録
『東洋思想の一淵源 経世の書・呂氏春秋』
関西師友協会/全国師友協会
昭和43年刊

これは昨年末の最後に読んで感銘深かった本。
昭和43年、安岡正篤氏が久保田鉄工の本
社講堂で行った『呂氏春秋』の講義録です。講義5日分の内容なので量的には小冊なのですが、古典に関する話は易々とは読み進められず、講話の区切りに合わせ5晩かけて読了しました。
安岡氏の講演は前後に必ず参加者を一礼させ、遅刻や途中退席を認めないという厳格な空気の下で行われたそうですが、真面目に拝聴した人はさぞかし感激にうち震える思いをしただろうと想像します。古典を論じながら逐一時事問題を挙げ、我々現代人の生活に古人の言葉をどう生かしたらよいかという形で各項は進む。氏が常々提唱していた「活学」とは、古典思想をただの知識とせず各人の生活上に生かすことが本然の学問であるとする考えで、これは儒教の実践を視野に入れた陽明学にも通ずる姿勢です。
実は安岡氏の著作の大半はこうした講義録で、そのため自分の主観的世界にはそれほど深く沈潜しない。知っている事を自分の解釈を交えながら聴講者に分かりよく伝えようという新卒な意志が見られます。日本の政財界、企業の人々が、東洋政治哲学の専門家のなかで特に安岡氏を尊敬し引っ張りだこにしたのは、その高い学徳と併せ一般人の胸にもじかに沁みてくる親切な語り口の故だったように思います。

始皇帝以前の東洋哲学の便覧というべき「呂氏春秋」は、千数百年も前に呂不韋という人が複数の識者に書かせたものを編纂した書物。「呂覧(りょらん)」とも言います。全編は長大な文献ですが、講義の制約上ここではほんの一部の格言と詩だけを取り上げています。
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人間生活の三原則
「天の道を変ずることなく。地の理を絶つことなく。人の紀を乱すこと無かれ」

天道・地理・人紀、これは人間生活、人間文化の三原則であります。天にも道がある。天をして天たらしめるものがある。これがなければ天が天でなくなる。これあるによって天が存在し、存続しておる。天にはそういう本質的なものがある。それが道である。この天道を変えてはいかぬ。変えると人が滅びる。破綻する。
と同じ様に地には地の筋道がある。これを理という。理は玉にあるところの筋でありまして、これあるによって地が成り立っておる、これがなければ地は存在しない、というものを人間の知で考察して理と言う。これを結んで道理と言う。天道が現われて地理となっておる。
又人間にも、これ無くんば人間が存在し、生活することができないという筋道がある。これが道理に対する人紀であります。紀は法、法則という意味です。
だからこの三原則を失えば人間生活・人間文化は成立たないわけで、この頃の科学はこれを解明しておると申して宜しい。これもしばしばお話致しましたが、文化が発達して世界は一つになり、地理の差別がなくなった。熱帯も寒帯も温帯もなくなってしまった。そのためにわれわれは坐して西洋のものも東洋のものも、熱帯のものも寒帯のものも、玩味することができる。しかしそれだからと言って、われわれがほしいままに他国・他帯のものを食っておったらどうなるか。これはとんでもない人間生理の破壊になる、ということがだんだん判明した。
やはり熱帯には熱帯の特徴があり、寒帯には寒帯の特徴があるわけで、人間はなるべく生を亨けたところの、大きくなってからでもいつも住みなれた地域の、季節の物をその季節に飲み食いするのが一番真実であるという事がはっきりして来た。これが所謂天道です。余り珍しいところの物を季節を無視して摂取するとどうなるか。考えてみると恐ろしいことであります。
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天の恵みとそれを元とした地球上のあらゆる自然現象、風土。これら「道」と「理」に反した行いは、政治の世界でも個人の社会生活でもなかなか止むことを知りません。なぜ天道、地理に背くことをしてしまうのかと考えてみると、天地の恵みは当然受けるべき権利であり、人間の都合次第では無限なる自然に手を入れても構わないと思っているからでしょう。道理に対する「人紀」すなわち法律も、時の地位ある人間が作るものだから、残念ながら実際には道理に敵ったものばかりではありません。
人間は新しい知恵を付け、利便性や快楽を追求するようになってから、益々根本的な恩恵には感謝しなくなっています。お米も酒も、魚介もお茶も果物も、これを口にする時に食欲を満たす喜びは誰しも感じるでしょうが、それ以前に先ず、日本に生を受けた自分の宿命を尊く思わないといけない。紛れもなくこれは風土の賜物であり、外国で同じものは食べられません。
感謝の念と低級な欲望は、大体において反比例の関係にあると私は思います。感謝が増すと欲は消える。我欲が増すと、かならず感謝が薄れる。人への感謝も同様でしょう。
他の名言も取り上げたいのですが、長くなってしまうので、今回は「人間生活の三原則」のご紹介に止めます。