マティス展、ABSTRACTION、山下清展からのテート美術館展 | アントニオ(教授)のブログ

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そもそも何故マティス展に行きたくなったのか?が、最初は自分でも良く分からなかったのです。絵を見ることは好きで、好きな画家もいるけど、マティスがその中にいたかというと(もちろん名前は知っていたけど)特に好きな画家という訳ではなく。どちらかというと印象派より抽象絵画が好きなのて。でもマティス展の広告を見たときから「これは行かなきゃ!」という気持ちになったんですよね。

まだマティス展に行く前に、「それが理由かも」と思ったことがありました。朝日新聞の記事で「マティスの絵は遠近の描き方が日本的」とあって、それを読んだときに「あぁ、自分がマティスが気になっているのはそういうことが理由かも」と感じたことです。透視投影的に消失点が存在する絵ではなくて、平面的に遠近が表現されている、それも日本の絵のように、上が遠方、下が手前となるような描き方がされている、という記事でした。それでいてあの鮮やかな色使いという点が、私にとっては絵を見る際に今まで意識してこなかったコントラストとして感じられて、何か引っかかったものがあったんでしょうね。

だから、マティス展に行って、マティスが「新印象派」「フォービスム」「キュビスム」と探求し、対象の印象や本質を色彩という視点でどのように表現するかに取り組んだということを知って、そういうことかと腑に落ちたのでした。印象や本質を鮮やかな色彩で単純化するということは、色彩を軸に、印象を鮮やかに抽象的に表現する絵画という点で、抽象絵画が好き(それは恐らく形状の表現において)な私のこれまでの絵画鑑賞知識の引き出しに無かったもので、それが観に行きたいという欲求につながったのだと思った、いや、理解したのです。

マティスが最後に切り紙絵に行き着いたのも自然の流れだと思います。切り紙絵は究極の「対象の本質の単純化」だと思うので。

マティス 「赤の大きな室内」

さて、マティス展に行った後、偶然に、アーティゾン美術館で開催されていた「ABSTRACTION 抽象絵画の覚醒と展開 セザンヌ、フォービスム、キュビスムから現代へ」のことを知ります。ちょうどマティス展に行った後で、印象派からフォービスム、キュビスム、切り紙絵のような抽象表現に至るマティスの絵画表現の流れに、そもそも印象派が全ての始まりなんだよね、と感じていたところだったので、この流れをきちんと解説してくれているであろうこの展覧会は大変興味深く、すぐに行くことを決めたのでした。

いやぁ、同時期にこの二つの展覧会が開催されていたのは奇跡ですよ。それとももしかしてお互い意識した開催だったのかなぁ。。

この展覧会ではセザンヌのサント=ヴィクトワール山から展示が始まります。この絵、実は私が絵に興味を持つきっかけになった一枚。中学の美術の教科書で見てからずっと記憶にある一枚です。

セザンヌ(印象派)を抽象芸術の源泉ととらえ、Section2でフォービスムとキュビスムに繋がるのですが、ここでマティスが紹介されています。マティスがシニャックの影響で点描に挑戦した絵はマティス展でも展示されていましたが、ここでも同様の展示があります。両者ともにある紹介は、「規則に違反することも辞さない自由さによる色彩の追求」。特にABSTRACTIONでは、これを「自由で不規則な点描により色彩をさらに際ただせている」「フォービスムの登場を予感させる」とあります。

この、マティスの「日本風の遠近表現」「切り紙絵」「自由で不規則な点描による色彩表現」が、この後の山下清展とつながるとはこの時は夢にも思わず。

ABSTRACTIONでは、印象派、フォービスム、キュビスム、そして抽象絵画に至る時系列の流れが非常に分かりやすく展示されていて、大変勉強になりました。これを横の流れとすると、これを一人で追求したマティスは縦の流れになるのかな、と勝手に考えた次第。

ちなみにABSTRACTIONでは、日本における抽象絵画の萌芽と展開、ヨーロッパとアメリカの抽象表現の比較(ロスコもあった!)、現代芸術の展示へと続き、大変見応えがありました。日本の現代芸術の展示で、津上みゆきさんが気になりました。軽井沢現代美術館で11/23まで企画展示があるそうなので、観に行きたいと思います。

 

セザンヌ 「サント=ヴィクトワール山とシャトー・ノワール」

続いて、SOMPO美術館での「生誕100年 山下清展 百年目の大回想」。これは純粋に一度山下清の貼り絵をこの目で見たかった、それだけで行ったのですが、実際に生で観るその貼り絵に圧倒されました。ここまで精緻で表現豊かで鮮やかで、、それは、「見たものを貼り絵で表現する」というより、「貼り絵で表現されているものがそこにあった」と言えると思うと共に、「貼り絵は、実は究極の表現技法ではないのか?」と思いました。制限された色と模様の紙しか手元にない中、それを千切った紙の大きさの違いと組み合わせ、「こより」も用いた表現によりカバーし、鮮やかに「心の目で見た印象」とも言うべき表現を可能とするのは、とにかく素晴らしいの一言でした。

そしてここで繋がるんです。「大小の千切った紙、こよりによる表現」は、「自由で不規則な点描による表現」なんですよね。マティスが切り紙絵に終着したことと、山下清が貼り絵による表現に関心を示し没頭したのは偶然の一致ではないような気がするのです。

 

山下清 「長岡の花火」(美術館前ポスター)

最後は、「テート美術館展 光」です。これも副題は「ターナー、印象派から現代へ」とあり、印象派から始まる光の表現が現代芸術へどのように繋がっているかを見せてくれます。

印象派は「見たものではなく見た印象を表現する」であるとすると、ターナーの宗教をモチーフとした絵画における光と色の効果に重点をおいた表現はとても興味深いものがありました。ターナーが「細部に注意を払わなくなり」ということは、つまり、抽象表現につながる考え方であり、ここでもやはり「印象派がすべての始まり」ということが示唆されています。

光の表現が印象派から抽象絵画へ影響を与えた、ということは、当時、光や光線の表現を理論的に示したバウハウスでの教えが、「印象と理論」という、一瞬矛盾しているようにも思えるその教えが、実は「光の印象による表現を理論的に示している」ことを表しているということでもあり、だから重要なのか、と再認識しました。実際、ABSTRACTIONでもテート美術館展でもバウハウスに関する展示はありましたしね。

ブレットの「イギリス海峡」はこの展覧会を代表する絵ですが、よく見ると海面の表現が点描となっているのが興味深かったです。

そして、ハマスホイの「室内」。これは、「光を脳内の目で感じる」とでもいうべき絵で今回一番印象に残りました。

そう、光を「目で見る(=視覚)」ではなく「脳内で意識する」、それはJ.J.Gibsonの生態学的視覚論を思い出させる、そんな展覧会でした。奇しくも、現代美術としての展示のナウマンの「鏡と白色光の廊下」は、Gibsonの「光のトンネルの実験」を彷彿とさせました。

 

ハマスホイ 「室内」

何かが気になってマティス展に行き、ABSTRACTIONでその「気になった何か」を学び、山下清とマティスに究極の印象の色彩表現における共通点を感じ、テート美術館展におる光の表現の数々がこれらの総まとめとなった感じがします。改めて、見る、観る、視る、印象、抽象、具象、光、本質、色覚、視覚、認知、バーチャル、、、それらについて考える機会となりました。

これら4つの展覧会を同時期に観覧することができたのは、偶然だったのか必然だったのか、いずれにしても、大変良い機会で、自分自身がなぜ絵が好きなのか、それを再確認する機会にもなりました。