天忠組河内勢の墓碑巡り、養楽寺・西方寺 | 天忠宿のコゲ亭主

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天忠組河内勢の首領、水郡善之祐のお墓です。

河内郡錦部郡甲田村の庄屋水郡岩五郎の長男として生まれましたが、

孝明天皇の大和行幸の御先鋒隊として京都を出発した

いわゆる天忠組に河内勢を引き連れて参加をし、

千早峠を越えて大和五條に向い、五條代官所を襲撃します。

しかし、8.18政変のため行幸は中止され十津川へと退却します。

水郡善之祐を指導者とする河内勢は、

緒戦以来つねに隊の先陣を受けもって奮戦をし、

特に栃原、樺の木、北曽木、大日川での防戦、

さらに下市での夜襲では彦根勢を襲撃し大きな成果を上げています。

けれども、中山忠光ら首脳部の作戦、統帥と意見を異にした河内勢は、

天忠組本隊と別行動をとることになるのです。

結局万策つきて9月22日紀州藩出張所に自首しましたが、

天誅倉に幽閉された後10月3日京都の六角獄舎に移送されます。

翌年の元治元年8月19日、六角獄舎に禁門の変の業火が迫ったのを口実に

他の天忠組関係者たちとともに惨殺されました。

善之祐39歳でした。

富田林市甲田の養楽寺にその墓石があります。

霊標には、

従五位忠烈院高顕長雄大居士
元治元年七月十七日没 俗名善之祐長雄行年三十八歳と刻まれています。

少し暗くて文字が見えませんが、森本伝兵衛勝定の碑です。

善之祐と同じ養楽寺境内にあります。

森本家も元庄屋をし村の年より役も務めた家柄で、

資産も多く所持した豪農でしたが、

伝兵衛が天忠組に参加し他の志士とともに多くの家財を使ったため、

後に残された家人は非常な苦労をされたようです。

富田林市毛入谷にある西方寺。
ここに辻幾之助の顕彰碑が建てられています。
天忠組本隊と分かれた河内勢は様々な危惧に遭遇しますが、

辻幾之助は歩行も困難な重傷を負います。

一行の足手まといになるまいと自決の決心を固めますが、

善之祐のここまで苦労を共にしてきた以上、

生死を共にしようという言葉に自決を思いとどまり紀州藩に自首するのです。

その碑は護国の義霊と書かれた富田林霊廟の中にありました。

中村徳次郎の墓石です。

墓石の三方にはその事績が刻まれていました。

徳次郎は本隊と分かれた河内勢ともはぐれてしまい、

東条昇之助とともに逃げ、九死に一生を得て昼夜兼行辛苦の末高野街道に出て、幸いにも郷里に帰ることができました。

明治時代に入ると南河内郡役所に勤め、

明治21年大阪市博物館、大阪府土木課、大阪市区役所に奉職し、

大正6年11月14日に病没されました。

享年79歳でした。

天忠組志士にの中の数少ない生き残りの方なのです。