天誅組 東吉野村連続催事 第一弾
春日大社権宮司 岡本彰夫氏の講演ー宮廷の組織と奈良はどうなっていたのかー ~孝明天皇の大和行幸の訳~と、
岡本彰夫氏、天誅(忠)組記念館館長草村克彦氏、東吉野村教育長阪本基義しの記念対談を聞くために、
東吉野村住民ホールまで出かけてきました。
早朝7時から、地元のクリーンキャンペーンの一環で川掃除と
元賀名生小学校のグラウンドの草刈りをしてから
10時に家を出発し11時過ぎに住民ホールに到着です。
開始2時間前でしたので今回も一番乗りかと思っていましたが
すでに数名の人が来られていました。
受付では、東吉野村のマスコットキャラクターの「ひよしちゃん」が
東吉野村天誅組顕彰会の法被を着てお出迎えです。講演開始20分前でほぼ席は埋め尽くされていますが、
この後もどんどん入場されてきて固定席では間に合わず
急遽パイプ椅子を用意されていました。
岡本権宮司の講演が始まりますが、
いつものように貴重な資料をもとにお話が始まります。
奈良と宮廷の関係を見てみると、
春日社興福寺の社寺領は二万一千百拾九石五斗あったそうですが
これは伊勢神宮の五万石、日光東照宮の二万四千石余りに次いで
三番目の多さだそうです。
興福寺には一条院と大乗院の両門跡、四院家、諸院諸坊があったそうです。
奈良ホテルのロビーに掲げられている、大乗院庭苑四季眺望真景という
貴重な写真も資料としてつけられています。
大乗院庭苑は、平安時代から続く日本屈指の庭苑でしたが、
明治に入り取り壊され奈良ホテル等が建てられたということです。
その大乗院の末寺には、信貴山、長谷寺、大安寺、薬師寺、唐招提寺等
名だたる寺がその名を連ねています。
博物館でもめったに見ることができないような資料を示しながら
説明をしてくださいます。
そしてなにゆえ文久三年((1863)孝明天皇は大和行幸を詔されたのか。
その理由の一つとして、神武天皇陵を孝明天皇が現在地に御治定されたこと
もう一つは、神仏が前以て凶事の予兆を示されることを「恠異」と言って
大変恐れられていたのだそうですが、
奈良県下で有名な「恠異」は、多武峯の「御破裂」と
春日大社の「山木枯槁」と「神鏡落御」の三つと言われています。
その一つ「神鏡落御」が文久二年の正月二日と、二月四日に続いて起こりました。おりしも幕末の風雲吹きすさぶ中の出来事で孝明天皇の御心を悩まし奉ったのです。
そのため文久三年、賀茂、石清水の行幸の後大和行幸を詔されたのです。
その大和行幸のための皇軍御先鋒隊が「いわゆる天誅(忠)組」だったわけです。
私心を捨て、国家国民のために義挙を起こした天忠組志士たちの志を
今の混乱した世情の中に生きる日本人が学ぶことが大事ではということでした
岡本権宮司、草村天誅(忠)組記念館館長、阪本東吉野村教育長の
記念対談が第二部として始まりました。
阪本教育長が天忠組に関する問いかけをし、岡本権宮司、草村館長がそれぞれ意見を述べるという形で進んでいきます。
日本人は「誇り」を持とう、自分の生まれた所、親兄弟に、学んだ学校に
働いている職場に、そして地域ひいては日本という国に「誇り」を持つことによって、人のために生きる、みんなのために働くという気持ちが自ずから
起こってくるものだと、それが天誅組志士たちの志でもあったということでした。
志士の生き様(史に様)、自分の命を犠牲にしてでも
主将の中山忠光公を脱出させた三総裁や6人の決死隊。
そこに純粋に義に生きる志士たちの思いを見ることができるのではないかと。
「一心公平無私」こそ志士たちの思いをあらわしている言葉であると
いうことでした。
終了予定字時間を過ぎていましたが、300人以上この会場に集まられた方々は一生懸命最後まで聞かれていました。












