勤王の鐘を鳴らすのは  天忠組 | 天忠宿のコゲ亭主

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傷ついた吉村寅太郎が療養したと言われる杉本屋の4代目コゲ亭主が、南朝の里「賀名生」や天誅(忠)組・神社関係の等の情報を発信します。



「この鐘は天忠組非常の時打ち鳴らしたと言われる

勤王の鐘と呼ばれている。」

と書かれているのは本堂に吊るされているこの鐘のそばに

打ちつけられている説明板の一節です。

そこには伴林光平の歌和歌も書かれていました。

「苔のむす簾の里に住まいても 憂いばかりはへだてだりけり」

場所は五條市大塔町簾にある浄土真宗本願寺派光圓寺。

吉見良三著『天誅組紀行』「天辻峠」の段に

差し入れられている地図から見ると

天辻峠・簾・阪本は隣り合った地域になっています


簾橋を渡って左の方に見える山の頂上付近に
簾地区がありさらにその上にお寺が建っています。
橋を渡って簾地区に走る道を見たときには一瞬唖然としました。
山道を走るのは得意な方で少々の道は何とも思わない私でしたが、
この細い大変急な坂道を見たときにはこれは無理かなと思いました。
今までの生涯の中でこんな急な坂道を登る経験をしたことがなかったのです

亡びんやっとの思いでたどりついた光圓寺でしたが、
お寺の方はおられませんでしたがきれいに整備されていました。
『天誅組紀行』の一節より
「天辻には夜の七時過ぎに着いたようだ。家々では、
峠の下から鐘太鼓を鳴らして、大勢の侍がやってきたので、
女、子供は隣村の簾の不動堂へ逃げ、
男たちは家の戸を閉ざして様子をうかがった。…………
忠光が、本陣として白羽の矢を立てたのは、
峠の最高場所にある鶴屋治兵衛の屋敷だった。
最高所に家を構えるだけあって、鶴屋はこの地方きっての豪商であり、
有力者である。…………
「天の川の水が逆に流れても、鶴屋の身代は亡びん」とまでいわれた
金持ちだった。」
「地元の簾、坂本、小代などの各村も、天忠組が入った直後
米二百七十四荷、塩五十八表を挑発され、
そればかりか毎日のようにやってくる人足たちの宿泊や食事の世話は、
一切地元にかかってきた。」とかかれています。
幕末の当時は天忠組の一行を迎えるだけの財力や人力があったのでしょうが、
今では簾の集落に住んでおられるのはほとんどいないようすで
誰一人とも出会うことがありませんでした。

ただこのお寺には鶴屋治兵衛のご子孫の方のお墓があり、
わたしたちが伺った時にもきれいな花が手向けられていました。