昭和42年生まれ元司法浪人無職童貞職歴無しの赤裸々ブログ

昭和42年生まれ元司法浪人無職童貞職歴無しの赤裸々ブログ

昭和42年生まれの元司法浪人生です。
日々の出来事や過去の来歴を隠すことなく赤裸々に語ります。

Amebaでブログを始めよう!

昨日久しぶりにブログを更新した。

ほぼ下書きの状態でアップしたが、長期休載を断ち切るのが目的だったので、そこは気にしないことにした。

一般の人は読んで決して気分がよくなるものではないので、さして読まれないだろうと思っていたが、反響が大きいことに改めて驚く。


このブログを始めたきっかけは、単純な「同類探し」である。

赤裸々に自分を晒すことで同類を見つけて傷をなめあおうというのが魂胆だった。


司法浪人時代、よく、ネットで「40代 司法浪人 ブログ」と検索して、自分と似た境遇の人たちの悲惨さを見て溜飲を下げていた。


しかし、悲惨な境遇を見ても、その過去を見ると、家族がいたり、童貞でなかったり、核心的な部分が自分の来歴とずれていたため、いまいち共感できなかった。

30代ならごくわずか似たような境遇の人はいるが、30代であれば、まだやり直しもきくし、仕事も見つかるであろう点で、やはり共感できなかった。

結局、自分と同じ世代で、同じ考え方を持っている人間を見つけることは出来ず、自分でブログを書くことにした。


ただ現在、「40代 司法浪人 ブログ」で検索すると、ほとんど自分のブログである。


そこでやっと気付いたのだ。

そう、社会から断絶された期間が長くなればなると、自分の境遇を理解してくれる人間がどんどん少なくなることに。

そして、いわゆる最狭義のぼっちとなるのだ。


自分は、もともとごく単純な一般的な人間だった。

高校時代、ほかの男子高校生と同じように、ごくごく一般的な悩みを抱えていたのである。


「高校生の彼女または女友達がほしい」


これだけである。

男子高校生ならおそらく誰しもが持っている「一般的な悩み」であるし、解決はそれほど困難ではない。

しかし、当時の自分は、この悩みは一過性のものだと思って我慢し、解決しようとしなかった。

放置しても解消するどころか、この悩みがどんどん肥大化し、解決が難しくなっていった。


女欲しけりゃナンパでもすれば?と思われるかもしれない。

たしかに、そうすれば解決できるかもと考えたこともある。

しかし、当時、ナンパなど、ごく一部の不良しかしていなかった。

不純な行為なのである。


当時、自分が好きな女性のタイプは、奥手タイプの女性である。

ナンパを嫌うような女性がタイプの女性なのである。


もし好きな女性が現れたとき、こちらがナンパ行為に及び、逆に変な目で見られて嫌われたら元も子もない。

そう考えるとますます及び腰になり、そして、そもそも女子と喋ったことすらないのにナンパなぞ出来るわけがない、その策は止めよう、となったのだ。


そして、当時の自分はこう考えたのである。

「女子としゃべれないと、これから大学に行ったとき間違いなく浮いてしまう。大学生で、女子と付き合ったことがなく童貞だなんて、恥ずかしくて言えない。」

そして、どうすればよいかと考えた時、誤った選択肢を選んだ。


そうだ、勉強し、一流といわれる大学に行けば、高校時代に彼女がいなかったことも言い訳にできるだろう。

一流大学に行けば、彼女がいなかったことを言い訳にできるうえ、むしろその真面目さが受けて女子が自然と寄ってくる。

その中から選べばいいじゃないか。

高校1年の時、父に共学へ転校したいと言った時、同じようなことを言われたので、あながち間違った選択肢ではないと思っていた。


しかし、そんな不純な動機では身を粉にして勉強には打ち込めず、結局、彼女いない歴を糊塗するためにどんどんハードルを上げ続け、気がつけば膨大な時間が過ぎていった。


そして、それから30年後、

46歳、もうすぐ47歳の男がいまだに


「高校生の彼女または女友達がほしい」


と、思っているのである。

できれば、大部屋で、男女4名くらいで、ジュースやポテチを持ち寄って皆でトランプをしたい。

人生ゲームとかしたい。


そんな幼稚な欲求を未だに持っているのである。


今思えば、初めから女子にアタックすればよかったのだ。

彼女いない歴の言い訳のため、職歴無しを取り繕うため、高齢童貞を取り繕うため、そのために貴重な貴重な青春時代を費やした。

その結果、まともに人と会話することすらできなくなっていた。


さらに、あまりの女日照りに、性的興味は変質し、SMものや恥辱ものなど、極度のマニアックな性行為でしか興奮しなくなってしまった。


もはや最狭義の精神異常者である。



ずっと更新ができなかった。

しようと思えばできたのだが、ずっとそのままにしていた。

日雇いバイトが朝早いため、ブログを書く余裕がなかったことと、ネタがあっても、ブログがだんだん注目されるにつれ、ちゃんと推敲しないといけなくなり、面倒になってきたのも理由である。


近況は、現在実家にいて短期のバイトを繰り返している。

塾をクビになった後、日雇いバイトを繰り返していたが、それだけでは生活ができなくなったため、紆余曲折があった後、親元に再び舞い戻ってきた。


ただ、この1年は自分の人生にとって大きな変化をもたらした年であった。

今までの人生で初体験をいくつも経験した。


・原付の免許を取ったこと。

・原付を購入したこと。

・原付で遠出をしたこと。

・初心者講習を受けたこと。


振り返ればすべて原付絡みではあるが、大きな変化のあった年であった。


まず、なぜ原付の免許を取ろうとしたのか。

それは、短期のバイトや派遣の登録でも履歴書と身分証明の両方を要求する所があり、そのとき保険証だと嫌な顔をされるため、身分証明を取得することの必要性を強く感じた。

そして、写真入りの身分証明と言えば、やはり運転免許証であり、運転免許証と言えば車の免許である。

車の免許は、教習所に通う費用と時間を考えると、無理なのでいったんは諦めていた。


ただ、原付は1回の試験で簡単に取得できることを思い出し、安易に取れるものと思い、挑戦した。

原付の免許程度であれば一発で取れるとタカをくくっていたが、実際はそんなことはなかった。


4回も落ちてしまった。

原付の免許ごときに4浪したのである。


10代の若者が大勢1回で合格しているなかで46歳の自分が4回も落ちたことは屈辱に他ならなかった。


試験場も、初めて行ったときは迷って遠回りしたが、どうせ1回しか来ないんだし、道を覚える必要もないとおもっていたが、まさか5回も行くことになるとは思わなかった。

結局、駅から試験場までの近道まで覚えてしまった。


1回目は駅前の講習を受けただけで本当に何もやらずに受けたため、箸にも棒にもかからない点で落っこちた。

しかし、それなりにショックを受けた。


その帰り道、昔、この免許は底辺の不良がとるもんだ、人生エンジョイしている馬鹿者がとる試験だと思っていたことを思い出した。

以前、自分が留年してた当時、大学の教室前の廊下で、アホそうな大学生が、ピザ屋のバイトのために原付免許を受けたが、一発で受かったことを同じくアホそうな顔の大学生に自慢したら、「今頃原付かよ」と馬鹿にされていた。


そう、アホでも通る試験なのである。

そんな試験に、なぜ自分は落ちるのか。

そういう意味で勉強せずに受けたくせにショックを受けていた。


そのため、2回目3回目は多少なり勉強した。

しかし、2回目も3回目もダメだった。


東大、司法試験を目指していた自分が、司法試験択一試験まで通った自分が、原付ごときに落ちるなんて、弘法も筆の誤りとでもいうのか、こんなこともあるもんだなと思った。

そして、そもそもこんな試験、身分証明を作ることを目的として受けただけで、合格してもさしてうれしくはない、だから、不合格でもなんてことはないと、自分に言い聞かせて慰めていた。


ただ、やはり悔しかった。

近道のはずの駅まで道がとても遠く感じた。


そして、4回目の試験前には、ちゃんと勉強した。

なので、さすがに受かるだろうと思った。

合格発表がアナウンスされる会場は、オッサンもいたが、ほとんど若者ばかりである。

自分の隣にいた若者は、知性的とは程遠く、ボクシングの亀田みたいなヤンキー少年だった。

自分にとって、この会場にこんなやつと一緒にいることだけでも屈辱だった。


そして自信のあった4回目も落ちていた。

隣の亀田は合格していた。

しかし彼はさして喜んでいなかった。

書類を丸めて手に持ち、口をへの字にしたまま合格者列に並んでいた。

おそらく原付免許程度じゃそれほど喜ばないのだろう。


亀田ですら受かるのに、自分は落ちていた。

もはやショックというより、自我が崩壊した。

ヤンキでも受かる試験に落ちるのか、これは加齢による記憶力の減退なのかと自問自答し、このままの半端な気持ちでは受からない、本当に真剣に勉強しようと思うようになった。


身分証明を作るだけという安易な気持ちを捨て、原付に乗りたいと、原付に乗って道路に出たいという目的意識を切り替えた。

こう思わざるを得なくなったことは正直屈辱極まりないが、そうも言ってられなかった。

このままでは受からないのである。


図書館で朝から夕方まで原付の勉強をした。

まさに受験生時代と同じである。

休憩の間も、外で標識を見て暗唱していた。


5回目の試験では出来は、今思えばほぼ完ぺきだったが、その時は何問か怪しいところもあり、気持ちは5分5分だった。


やっと合格していた。

このときの喜びは自分の人生で最大のものだったかもしれない。

悔しいが、それくらい嬉しかった。


試験に受かった後、講習を受け、免許を手にすると、今度は原付がほしくなった。


今思えば、まるで高校生である。

塾をクビになり、仕分けの仕事を何度かやったが、現状は変わらない。

資金に余裕がないため、そうそう遠回りもしてられない。


このブログもマンガ喫茶から投稿しているが、マンガ喫茶は主にハローワーク代わりに使っているので、ブログの更新もままならない。

いつも中途半端に入力しては諦めを繰り返し、だんだん面倒になり、ついには更新すらする気が起こらなくなった。


塾の仕事に未練があるため、せっせと応募を繰り返しているものの、やはり以前のような環境の塾は45の人間には全くない。

あれが奇跡だったのだ。


今となれば痛感する。


塾でクビを宣告されたのは、室長ではなく本部の人間だった。

そこの塾ではクビが初めてだそうで、室長がわざわざ呼んだのだろう。


本部の人間は自分より30後半くらいの若造だった。

年は若くとも社会経験豊富そうな、そんな感じの若造だった。


そんな若造からクビを宣告された。

クビ宣告する当初は、一見申し訳なさそうな顔をしていた。

しかし、途中から反論は一切許さないというような実にふてぶてしい顔となり、さらに後半には、むしろ反論ウェルカムな得意げな表情となっていた。

自分はクビを言い渡されたが、結局何も言えなかった。


若造は、自分が労働契約法違反やらなんやらを言ってくるに違いないと思ったのか、反論を封じるため、採用面接のときの資料みたいなものももってきていた。

しかし、終始その資料に触れることはなかった。

資料を使わずとも、こんなヤツ一捻りでつぶしてやると思ったのだろう。


そして、自分は何も言わなかった。

完全に若造の雰囲気にのまれてしまったのだ。


自分は司法試験の受験生だったということで、議論は強いと自負していた。

だから周りから一目置かれていていると思っていた。

周りが声をかけてこないのも、自分にやりこめられるのを警戒しているのだと思っていた。


いつも周りの会話を盗み聞きしては、自分ならこう返すのになと考えながら、シミュレーションしてきた。


しかし、そんなシミュレーションはてんで役に立たなかった。

反論が怖くて何も言えなかった。


そして、状況の悪いことに、クビを宣告されたのは少人数用の教室である。

薄い壁一枚隔てているが、ほかの講師もいた。

そんな状況で反論すれば、ほかの講師も覗きに来るだろう。

そして裏で嘲笑するだろう。


今考えれば絶対ないと思うが、自分のした反論に対し、ほかの講師も加勢して反論してきたらどうしようという不安もあった。


少なくとも彼らには格好をつけたかった。

狭隘な自尊心がここでも自分を追い込んだ。


そして何もなくなった。


仕分けの仕事と塾の仕事を比べれば、やはり塾の方が良い。


肉体的疲労が少ないのもあるが、なにより塾には女性がいるのだ。

職場に女性がいる点で塾のアドバンテージは大きい。

コミュニケーションをとったことはないが、女性がいるだけで全然違うのである。

もし高校も共学に行っていれば、このように毎日楽しかったのかもしれない。


塾の女性とは女性講師であり、彼女らは女子大生である。

自分より二回り以上年下だが、あえて「女性」と呼んでいる。

「女子」と表現すると違和感があるため、女性と言っている。

以前も同じことを書いたが、彼女らには大人のイメージがあるから、女性と言った方がしっくりくるのだ。

だから「女子」ではなく、「女性」なのだ。


塾の講師室では、男女ともに良く喋る。


自分はこの塾に来るまで、女性が男相手にこんなにも喋るとは思っていなかった。

自分が女子といた最新の記憶は中学時代であるが、男女同士で賑やかに喋っている姿を見たことがない。

テレビや街中でもよく喋る女性を見かけるが、生でこんなにまじまじと見たのは初めてである。


自分の中学校は女子の数が少なく、男女比2:1くらいだった。

また、女子と仲良くすると冷やかされる風潮があったせいか、男子と女子は一線を置いていた。

男子は男子同士で固まり、女子は女子同士でグループを作っていた。


そんななかで女子と付き合っている男はいたが、よく冷やかされてた。

自分もどちらかというと冷やかす側にいて、男友達と一緒に、付き合っている男女を見つけては、後ろを走って追っかけたりして、よくからかっていた。

当時の自分はまだ幼すぎて、女子のこともよくわかっていなかった。

このことは今も後悔している。

なぜ、自分も一歩踏み出して女子に近づかなかったのかと。

爾来、女友達も一人もいないし、まともに会話したこともないままである。

そして40代になった今でも、女子に対しては中学時代のそんなイメージを引き摺っている。


しかし、塾の女性講師は、よく喋る。
自分は孤高の人を演じているため興味のない振りをしているが、会話の内容は常に聞き耳を立てて聞いている。

特に男性講師と女性講師との会話のときは聞き漏らさず、すべて聞いている。


彼女らの好きな食べ物や、学校での専攻、誕生日などほとんど知っている。

直接会話したことはないが、彼女らの友人の誕生日パーティーをやった場所や、旅行先で泊まったホテルの名前、家族構成も知っている。


これらは、ちょっときいただけでも覚えてしまう。

直接会話したことがないにもかかわらず、彼女らの会話の内容ならすぐ覚えてしまうのだ。

司法試験の勉強で、定義や論証ブロックを何べん読んでも頭に入らなかったのに、こと彼女らに関しては脈絡のないフレーズでもすっと覚えてしまう。


しかし、彼女らの会話を聞くと、複雑な気持ちになる。

自分の理想とする女子に比べ恥じらいがないというか、良く言えば成熟しているのだ。

自分の理想とする女子よりはるか大人なのだ。

外見も中身も、彼女らはやっぱり「女子」ではなく「女性」なのだ。


彼女らは何でもあけすけに喋る。

男性との間の会話もよどみなく世間話をし、自分の感じたことを素直に語っている。


自分の中の女子は違う。

自分の中の女子、つまり自分が理想とする女子は、男子と喋る時も緊張してうまく喋れず、仮に喋れたとしても嬉し恥ずかしな感じで喋る女子である。

これは決して奥ゆかしい女子を求めているのではない。

派手で遊び好きでも、男性の前ではつい緊張してしまう。

大人の化粧をしていても、男性と喋るときはドキドキしてうまく喋れない。

そんな女子が良いのだ。


彼女らは違う。

彼女らは男性と話すときでも、昨日起こった出来事などぺらぺらと話す。

彼女らは男性と会話しても特段の抵抗を感じない。


すでに男性との会話に対する免疫を持っているのだ。

いや、男性そのものに対する免疫が出来ているのだ。


さらにすでに男性への態度も確立している。

男女間おける自分の立ち位置、スタンスともに出来上がっているのだ。

自分が想像していた女子と大きく違う。


自分など、いまだに女子が出てくる夢を見るだけで、朝、頭がぼーっとしてしまう。

女子と会話した夢を見た時など、起きた後も数時間ドキドキが止まらなくなる。

そして、その日はそのことで頭がいっぱいになってしまう。


そんな彼女らの会話に聞き耳を立てるのは、単なる性的な興味だけではない。

自分の理想を捨てきれないからだ。

彼女らは大人の女性でも、きっと女子っぽいところがあるはずだ、男性に聞きにくい素朴な疑問があって、それを聞けずに困っているはずに違いないと、そう思い込んで聞き耳を立てている。

そして、そばにいる自分に対して、おそるおそる「こんなとき、男性はどう思うんですか?」と話しかけてくれてくれるに違いないと期待している。

いまだ会話すらしたことはないが、この期待は捨てていない。


いつも家に帰ると、職場で話していた彼女らの会話を再現し、咄嗟に質問された時の回答を自分なりにシミュレーションをする。

自分ならこういうアドバイスをするとか、こういう態度で話すとかのシミュレーションをする。

特に男性講師が女性講師と話していた時は、自分が男だったらこう答えるとかのシミュレーションもする。

しかし、いまだに会話すら実現していない。


理想への道は遠い。


計5日間に及ぶ仕分けの仕事が終わった。

単発の仕事だが、今回は5日で終わりだった。

人手不足になればまた優先的に声をかけてくれるそうだ。


正直、苦痛で仕方がなかったが、ここは仕事があるだけ感謝するしかない。

底辺と貶めつつも、仕事にありつけたのだから、感謝すべきである。


ただ、この仕事を見つけた時、大学に入学したときのことを思い出した。

自分は4浪の末、現役の時に受かった大学と同じ大学しか受からなかった。

4浪の間、合格したのは唯一現役時に蹴った大学だけだったのだ。

結局そこに入学せざるを得なかった。


当初は受けるつもりすらなかった。

3浪目の受験の時、両親が心配して現役時に受かった大学も受けてほしいと懇願されたが、断った。

自分は医学部志望なのに、そんな名前を書けば受かるような大学なんて受けたくもないと突っぱねた。

しかし、3浪時も全滅だったため、4浪目は言う通り、やむなくその大学も受けることにした。

そして、結局そこしか受からなかった。

本来ならもう1年浪人して上のランクの大学を目指せば良かったが、諦めた。


当時の精神状態はひどく、もう1年浪人しても成績が上がる実感が湧かなかったのだ。

5浪となれば普通に現役で入学した同級生は卒業して働いているのである。

そんな中、もう1年世間から断絶して図書館で受験勉強することは、無理だと悟った。


もう捨て鉢だった。

「もういいや。馬鹿な大学だし、簡単にトップを取ってやろう」

そう思って気持ちを切り替えた。

しかし、入学して周りから浮いてしまったため、結局プライドを捨てきれず、仮面浪人する羽目になる。

そしてそれも失敗し、トップを取るどころか2年も留年した。


この仕事を探すときも、そんな感じだった。

当初は法律事務所や大手の事務仕事に応募したが、どれも年齢制限を大幅に超えているため、履歴書を送っても返事すらなかった。

ランクや希望を大幅に下げてもどこも声がかからなかった。

結局、どこでもいい、バイトでもいいやと思うようになった。

塾ならすぐ決まるだろう、そうタカをくくったが、これがなかなかうまくいかない。


しかし25日には家賃が引き落とされるため、少なくともその前に金を作らねばならない。

ガス代もまだ支払っていない。


背に腹は代えられない。

結局何でもいいやと思うようになった。。


仕分けの仕事は、塾と違い仕事はきつそうだが、1回の勤務時間が長い分、短期間でも給料がまとめてもらえる点でありがたい。

自分にとっては大金が短期間で稼げるのだ。

仕方ないが、これしかないと思った。

そして、電話一本で決まった。


受験勉強は1円にもならなかったことに比べれば、仕事はリターンがある分、まったくの無駄にはならない。

いくら受験勉強をしても、費やした教育費が戻ってくることはない。

そう考えれば、リターンがある分、仕事の方が断然ましである。


たしかに、塾の仕事に慣れてしまうと、仕分けは苦痛だった。

しかし、終わって給与額を算段するとまたやりたいと思えるから不思議である。


仕分けの仕事は、苦痛である。

苦痛の原因の一つに時間が過ぎるのがとても遅いことがある。

塾の仕事とは比べ物にならないくらい、時間が過ぎるのが遅い。


そんな仕分けの仕事中、ずっと同じフレーズが頭の中をぐるぐる廻っている。

フレーズといっても、音楽の一部だったり、言葉ではない。

同じ思考回路というか、同じ思考パターンが何度も何度も頭の中を廻っているのだ。


それは、自分の人生の敗因を探り、ひたすら後悔し続けるという思考パターンである。

人生の敗因を探り後悔する思考パターンが、仕事の最中ずっと絶え間なく、まさにヘビーローテーションで頭を廻っている。

本当に嫌になる。


小学生のころ、父によく言われた。

勉強をきちんとしていい大学に行かないと将来ろくな仕事がないぞと。

父は幼少時代とても貧乏で、疎開していた頃は食うものも無く貧しい思いをしたが、勉強だけは頑張って諦めず続けてきたから大学にも行けたのだと。


言われる都度、「あー、はいはい。わかってるよ!」と、反発した記憶がある。

「わかってるよ」というのは、反発しつつも、父の言い分についてはどこかで納得していたためである。


当時は偏差値全盛時代で、大学の偏差値が年収に直結していた時代である。

東大卒=官僚=田園調布に住むという構図が出来上がっていたのだ。

その当時は、子供でも良い大学に行かなくては人生とんでもないことになることくらいなんとなく認識していた。


でも、実際たいして勉強はしていなかった。

塾には通っていたが、宿題もいつもサボって怒られていた。


しかし、このままずっと勉強しないでいると、将来とんでもないことになるという恐怖感はあった。

だから、いつかはきちんと勉強しなくちゃいけないとは思っていた。

勉強は嫌で嫌で仕方ないけど、勉強しないといけないという認識は、恐怖感として持っていた。

父の忠言は、恐怖感という形ではあるが、意識の根底に刷り込まれていたのだ。


しかしそれが妙な倫理観となり、その後の様々な場面での自分へのブレーキとなった。


高校時代、アルバイトをしたり、バイクの免許を取ったりするのが流行ったが、これらに嵌ると将来とんでもないことになるという恐怖感があり、一切しなかった。


自分と同じマンションに住んでいた中学校時代からの友人がいた。

彼は、無類のバイク好きだった。

アルバイト代でバイクの免許を取り、バイクで北海道まで行ったことなどをよく自慢していた。


彼は当初から大学に行くことを諦めており、専ら高校生活をアルバイトに費やしていた。

よくアルバイトで月10万稼いだとか自慢していた。

それを聞いて、「すごいね」と言いつつ、こいつは将来肉体労働しかないなと侮蔑していた。


彼とは高校卒業後連絡を取っていないため、どうなったかは知らない。

しかし、45歳の現在、自分は16歳の頃の彼ほど稼いでもいない。

月10万以上もらったことなど、今までの人生で一度もない。


16歳の高校生がすでに到達した収入を45歳になってもいまだ到達していないのだ。

今の自分は当時侮蔑していた彼より稼いでいないのだ。


自分はこんな無様になるために勉強してきたのではない。

4浪もして東大医学部をめざし、20年もかけて法曹を目指してきたのではないのだ。

朝から晩まで自習室にこもり、外の天気もわからない中で勉強してきたのではないのだ。

街を歩くカップルを見て悶絶しながら、嫌で嫌で仕方がない勉強を続けてきたのではないのだ。


女にもて、高収入で、周りから尊敬される仕事をしたい。

そのために勉強してきた。

人生でもっとも貴重の大半を勉強に費やしたのは、そういう仕事をしたいから勉強してきたのだ。


昔は「営業職」が自分にとっての最底辺職だった。

他人に頭を下げて愛想笑いをするなんて絶対に嫌だ。

そういう仕事をせずに済むためには勉強するしかないと思って、勉強していた。


しかし、現在ハローワークでも営業の仕事は、この年齢で未経験では全く声もかからない。


荷物の仕分け作業で生計を立てるなど、30年の受験勉強中、思いついたことすらなかった。

最底辺と思っていた仕事を凌駕するさらに底辺の仕事など、考えたこともなかった。


どうせなら若いうちに死ぬほど遊び、やりたいことをやっておけばよかった。

その結果、この仕事をするなら、まだ諦めもついただろう。

このままでは死ぬに死にきれない。


こういう思考パターンが仕事中、何度も何度も頭を廻っている。


仕分けの仕事は単純である。

ローラー式のコンベアから次々流れてくる荷物を種類ごとにコンテナに分ける。

荷物が来ない間はコンベアを見て、荷物がこないかどうかを見守る。


それだけである。

しかし、肉体的侵襲はハンパない。

荷物は外から重さがわからない。

ゴルフバッグが続くと、腰が持たなくなる。

監視の目があるため、おちおち休んでもいられない。


配送場は深夜でもうるさい。

金属のこすれあうキーキーと乾いた音が耳をつんざく。

あちこち錆びているコンベアのローラーの悲鳴だ。


ローラーと自分の人生の後悔の悲鳴が間断なく襲ってくる。


この年齢で、肉体労働と深夜勤務のコンボは予想以上に辛い。






もう、ここ30年も「幸せ」や「喜び」を感じたことがない。

ずっと、無駄に時間を過ごしてきた。


自分の幸せや楽しさとは何か?


それは、そんなに難しいものではない。

実に簡単なものなのだ。


青春を謳歌したい。

それだけなのだ。


よく夢に出てくる風景がある。


アラ50の人間が言うと笑われるかもしれないが、自分の夢はこんな感じだ。

学校の体育祭や文化祭で友達と一緒に何かを頑張ったり、作り上げたり、そこで、友達と一緒に笑ったり、泣いたり。

友達同士で旅行に行って、海や川で思いっきりはしゃいだり。


自分はそんなことで幸せを感じるのだ。

そんな安っぽい青春ドラマみたいなもので究極の幸せを感じるのだ。


残念ながらそういう青春は経験できなかった。

高校時代は、男子校で進学校だったので、そういう経験は皆無だった。


結局、ずっと教科書との毎日を送っていた。

合格すれば、きっとそういう思いができるだろう、と夢見て勉強を続けてきた。

合格すれば、自分の感じる幸せを実現できるだろうと思って、勉強を続けてきた。


しかし、もうできない。

もう遅いのだ。


昔は夢の中でも、自分は体育祭や文化祭で皆に混ざって、一緒に泣き笑いしてはしゃいでいた。

朝起きると現実を知り、愕然とした。

最近はそうではない。

夢の中では、自分は楽しんでいる人間を遠目に見ているだけだ。

夢の中でも現実と同じ、中に加わることもできなくなった。


50歳で何かの試験に合格したり、目標に到達することができたとしても、その時から自分の青春を謳歌しようなんて無理だろう。


その怨嗟が、30年間、何度も繰り返されて夢に出てくる。


15歳ですでに人生が終わってしまったのだ。


もし可能ならあの頃に戻りたい。

あの頃に戻って、自分の夢をかなえたい。

自分の夢をかなえて、スタートラインに立ちたい。


他の多くの人間と一緒に、人生のスタートラインに立ちたいと思う。


先週、某運送会社で荷物の仕分け作業の短期の仕事を何回かした。

日給は9500円だ。


時間帯は夜の10時から朝の8時までで、休憩時間は2時間。


仕事の内容はきつかったが、それ以上にきつかったのが周りの雰囲気だ。
塾と違い、中高年層も結構多く、その雰囲気は異様だった。

男だらけで、何かこう異様な雰囲気なのだ。

女性がいないと、こうなってしまうのか。


自分が初めて男子校である高校に行った時の感覚を思い出した。

そうだ、こんな感じだ。

進学校だったが、なんとなく雰囲気が似ている。


そういう意味で、まさに底辺の仕事だった。

人生のピークを終わらせてしまった後悔と諦観の渦が職場全体に渦巻いている。

そんな感じだ。


しかし、今は続けてできる仕事がないから仕方なくやるしかない。


こうやって、また人生を無駄に使ってしまうのか。


職場で歓送迎会があったそうだ。


今年の3月で大学を卒業し、塾を辞めた講師と、新たに入った研修生の歓送迎会を近くのイタリアン風居酒屋で行ったそうである。


自分は歓送迎会に参加できなかった。

何の連絡も招待もなかったため、参加できなかったのである。


自分が歓送迎会があったことを初めて知ったのは事務員から会費の払い戻しを受けたときである。

塾では給料日にイベントの費用とするため、500円の会費を集めている。

イベントのたびにお金を徴収するのは学生にとっては酷だとの配慮から、財布に余裕のある給料日にお金を徴収しているのだ。


なるほど、この塾はアットホームが売りであり、募集広告にも懇親会があると謳っていた。

アルバイトをしながらサークル気分も味わえるのが謳い文句である。

自分は今までそういったイベントとは無縁の生活を送っていた。

いや、送らざるを得なかった。

イベントに参加したくてもそういうチャンスが皆無だったのだ。


だから、こういうイベントがある組織に参加するということは自分にとっては絶好のチャンスだった。

そこで女子と会話ができるかもしれない。

もしかすると、女子と無縁の生活に終止符を打てるかもしれないと期待をした。

いや、それ以上のことを想像し、期待をしていた。


なのに、自分もイベントに参加できると思い会費を納めたのに、何の連絡もなかった。

もしかすると自分が生活苦にあることを慮って敢えて誘わなかったのかもしれない。

しかし、自分も2月に勤め始めたのだから、この歓送迎会において歓迎される側に入っていいはずである。

この仕事を始めてから初めての歓送迎会なのだ。

生活費に顧慮して歓迎しないという理屈は、いかにもおかしい。

歓迎される地位に立つ必要性と相当性は十分ある。


よしんば時期が外れて歓迎される地位になかったとしても、会費を納めているのだから、少なくともイベントに参加できる権利はあったはずである。

なのに何の連絡もなく、会に欠席した人として扱われるのは背理である。


自分が歓送迎会の参加の張り紙を見落としていたり、または聞き落としがあって参加できなかったのなら自己責任といえよう。


たしかに、お店の名前を聞いて、そんな名前を講師室の会話の中でちらほらあった記憶はある。
しかし、自分に対しては誘いどころか会話すら一切なかったし、張り紙もなかった。

自分に歓送迎会があるのですが、いかがですか?という一言があってもいいのはずなのに、一切なかった。

もしあれば当日でも参加していた。


参加の手続きが何ら保障されず、一方的に欠席扱いとされるのは心外である。

どうせなら自分に知られず、徹底的に隠れてやってほしかった。

終わった後に知らされるなんて、心外を超えて怒り心頭である。


こういうイベントに参加したかったからなおさらだ。


飲み会や合コンなどのイベントには特別な思いがある。

今まで居酒屋に入ったこともないし、飲み会を一度もやったことがない。

テレビドラマでやっているようなコンパには尋常じゃない憧れがある。


飲み会の席で違う自分を出せたかもしれない。

自分の殻を破れたかもしれない。


そういう思いがあるからイベントに参加したいのである。


しかも普段話さない女性講師と一緒に肩を並べて話ができれば一石二鳥である。

何十年も女子と会話していない期間に終止符を打てるのだ。

何より、こういうイベントで自分のイメージアップを図れるチャンスなのだ。


年が離れているのでなかなか話しかけにくかったが、酒の席では器の広い人だと思われたかもしれない。

自分のクールでちょい悪なイメージからクールで素敵な人というイメージに変わったかもしれない。


そう思われたいから、こういうイベントに参加したいのだ。


改めて言うが、イベントに参加できれば薄明りの望みはあった。

仕事での自分の評価についても聞けたかもしれない。

室長に仕事に対するアピールをできたかもしれない。

講師になれるチャンスを掴めたかもしれない。


いや、何より女性講師が自分の隠れた魅力に気が付くかもしれない。

それがきっかけで友達になれるかもしれない。

彼女ができるかもしれない。


そう思っていたのに、この仕打ちだ。


4月に新しく入った研修生はもうすでに講師の間に入って馴染んでいる。

歓迎されたんだし、当然である。

自分は変わらず孤高の人である。

自ら孤高の人を貫いているとはいえ、この状況はいささか不安である。

5月からシフトも減ってしまうし、今後、講師のチャンスを掴むことはいっそう難しくなる。


事務員から会費の返還を受けるとき、茶封筒に小さく自分の名前と金額が鉛筆書きされていた。

そして、事務員の手元にはもう一通の茶封筒があった。

おそらく、自分以外に会費の返還を受ける人物がいるのだろう。

気にはなったが、歓送迎会があることを知らされなかったショックで、その時は誰だか判別することができなかった。


当然誰であるか気になったので、用もなく受付のあたりをうろうろした。

そして、事務員のいない隙に事務机の引き出しを覗き見した。

するとその茶封筒に薄く鉛筆書きしてある人物の名前が誰であるかわかった。


最近講師になったばかりの男性である。

彼の名前が茶封筒に鉛筆で薄書きしてあった。


彼も歓送迎会に呼ばれなかったのである。


彼は大学生で、2月にこの仕事を始め、4月に講師になったばかりである。

とすれば、今回の歓送迎会において、彼も自分同様歓迎される地位にある必要性と相当性はあるはずである。

彼も自分と同じように歓送迎会への参加の正当性を主張できるのだ。


そう、彼も呼ばれなかったのだ。

彼も自分と同じ仕打ちを受けたのだ。


こういうひどい仕打ちを彼に対してもするのか、この塾はそんなひどいことをするのかと憤慨した。

しかし同時に、「良かった、誘われなかったのは自分だけではなかったのか、彼も誘われなかったのか」と、一瞬ほっとしてしまった。


そのため、彼とはほとんど喋ったことがなかったが、急に親近感が湧いてしまった。

共産主義国が仮想敵国を作って一致団結するのと同じ感覚だ。

自分も塾に対して憤慨する気持ちがあるが、きっと彼も同じ思いを塾に対して抱くだろう。


なぜ歓送迎会に参加できなかったのか、彼も同じ疑念に苛まれるだろう。

自分と一緒に室長に詰め寄ることも考えられよう。

ただ、自分は彼の二回りも上の大人である。

一緒になって塾を仮想敵国に作り上げようというのでは、あまりに幼稚である。


ここは彼に同調せず、むしろ彼を勇気づけてやらなければならない。

この事件での一番の理解者は、同じ仕打ちを受けた自分しかいない。

二回り以上年上の自分が、彼の怒りを諌めて勇気づけてやらなければならないのだ。


彼にどう伝えてやろうか思案した。

「俺も誘われなかったから大丈夫だ、お前の気持ちは痛いほどよくわかるが、怒りの矛先を室長に向けてはならない。ここはぐっと堪えるんだ。」と伝えてやろうか、それとも、「自分も数多の辛い体験をしてきた、こんなことは些細なことだ、気にするな」と伝えてやろうか、いろいろ考えた。


こう考えるうちに、自分の気分も楽になったことに気が付いた。

彼を慰め、勇気づける方法を考えることで、まさに自分自身が慰められていたのだ。

むしろ、最初から自分の傷を癒す目的で茶封筒にある名前を覗き見たのかもしれない。


しかし、もはやそんなことはどうでもいいのだ。


こういうネガティブな体験でも、それが1人だけではないと思うと心理的負担がだいぶ違う。

ネガティブな体験を、誰かと共有し合えばかなり楽になるのだ。

そして、心理的負担が軽くなった分、親近感も湧いてくる。

そういう意味で彼に感謝しなくてはならないのかもしれない。


歓送迎会に意図的に呼ばなかったのは確かにひどいことである、

だが、そういうひどい体験を通じて、彼と「一緒に乗り切ろう、一緒にがんばろう」と団結できれば、自分の受けた仕打ちなど、痛くもかゆくもなくなる。

むしろそれによるプラスの効果の方が大きいのだ。

彼と友達になることができれば、今の孤独から少し解放されるかもしれない。

年は離れているから友達は難しいかもしれないが、やっと普通に話せる同僚ができるかもしれない。


自分が受験勉強で辛くて辛くて仕方がなかったのは、受験の苦しみを共有できる友達が一人もいなかったことも原因の一つだ。

これが解消できていれば、自分の人生も大きく違っていたかもしれない。


そんな風に彼に同情することで、自分のショックを和らげていた。


しかし、そんな同情も見当はずれだったことを思い知らされた。


彼のことが急に気になり、彼の5月のシフトがどうなっているか確認した。

自分と同じようにシフトを入れてもらえないのかと心配したのだ。


しかし、彼は自分と違い5月もきっちりシフトが入っていた。

それを見て、ほっとした反面、「シフトは入れてもらえてるのか、そこは自分と一緒じゃないんだな」とちょっと落胆した。


が、その後にその落胆を上回る強烈な衝撃を受ける。


ふと4月の彼のシフト表をめくった。

歓送迎会の日、彼のシフトは前後二日にわたり丁寧に×がつけられ、横に小さく「新歓合宿」と書かれていたのだ。


そう、彼は歓送迎会の日、新歓合宿だったのだ。


そもそも彼は呼ばれなかったわけではなかったのだ。

サークル活動の新歓合宿とバッティングしたため、サークルを優先したのだ。


単純に考えればすぐ気が付くことなのに、まったく気が付かなかった。

強制参加ではないのだから、いくら歓迎される立場にあったとしても欠席するのは当人の自由である。

そこまで考えなくとも、最初からシフトを確認すれば容易にわかることだ。


しかし全く気が付かなかった。

てっきり彼も自分と同じ仕打ちを受けたと思い込んでしまった。

そして丸2日間、彼を勝手に同情していた。


その2日間が走馬灯のように自分の中を駆け巡った。

会費の返還を受けたとき、会に参加できなかった怒涛の憤慨が沸き起こったこと、受付で彼の名前を発見したときは、屈折した安堵が自分を癒したこと、そして2日間、彼に対していらぬ同情をして自分を慰めていたことが自分の中をぐるぐる駆け巡った。

しかし、その2日間、彼が自ら欠席していたかもしれないという疑問はいっさい沸かなかった。


自分の狭隘な自尊心がその疑問を覆い隠したのだ。


自分は今この仕事以外何もしていない。

だからこの仕事が今の自分の生活の中心である。

しかし、他の皆はそんなことはない。

仕事以外に学校に通ったり、サークル活動に励んでいるのだ。


彼は自分と同じ2月に仕事を始めてもう講師である。

そんな奴が講師になれて、自分はまだ研修中で、しかもシフトすら入れてもらえない。


その現状が改めて自分に突き刺さる。

むしろ、切羽詰まった現状が、こんな激しい思い込みをさせたのかもしれない。


いや、そうではない。

現状のせいではない。

自分の捻くれた自尊心がそうさせたのだろう。


ただ、自分「だけ」を呼ばなかった理由を知りたい。

これだけは不思議で仕方がない。


もし、自分が他の講師のなかでも浮いていると思われたのであれば、むしろ積極的にイベントに参加させて打ち解けさせるべきだろう。

なぜ、こんな姑息な手段で参加させようとしなかったのか、そこが本当に不思議である。



仕事を探す関係で何通も履歴書を書いている。

返事があれば良い方で、ほとんど返事すらない。

ただただ写真と履歴書が無駄になっていくだけである。



履歴書を書いていて痛感したのが、他人に言える趣味や特技が一切ないことだ。

ネットが趣味といえば趣味だが、なんとなくイメージが悪い。

そのため、履歴書に書くのは気が引けてしまう。


たしかにネットが趣味と言っても内実は単なるズリネタ探しだし、現在はそれすらしていない。


本来は旅行や英会話といった趣味らしい趣味をかくのが筋なのだろう。


しかし、高校3年の修学旅行以来、旅行も行ったことがない。


ここ20年東京から出たことすらないのだ。

また、英会話なぞ、外人と会話したこともないのに書けるわけがない。


こうして考えると、自分は人生のほとんどを受験勉強に費やしてきたことになる。


高校卒業してから受験勉強以外何もしていない。


昔、野村克也が「生涯一捕手」と言っていたが、自分は差し詰め「生涯一受験生」だろう。

26年という記録的な現役期間を過ごしたその野村でさえ、45歳で引退しているのに、自分は26年間好きでもない受験勉強に費やした結果、いまだ就職活動中である。



そして野村は26年間の実績を買われ、監督を歴任するが、自分は何一つ今に生きていない。

就職するのすらままならないのである。


野村と比較するのはおこがましいが、人生とは何と皮肉なのだろうと思ってしまう。




新たな仕事を探さないといけなくなった。


シフトが入ってないのだ。


塾のシフトは、毎月15日までに各自翌月の予定のうち、都合の悪い日を表に記入し、サインをする。

そして、室長が表を見て、25日までにシフトを決めていく。


講師は自分以外は学生だが、それぞれ予定があるようで、×が結構な数をつけられている。

NGな日には×を入れるのだ。


自分は常に真っ白である。

特に予定などない。

シフトがなくても、急な呼び出しがあればすぐ応じて向かえる。

家にしかいないからだ。


今月はGWの関係もあるのかいつもより1日早く出た。

来月のシフトは週1しか入ってなかった。


週1回では4時間入れても1か月で1万ちょっとだ。

これでは生活できない。

室長に異議を申し立てようと思ったが、返す刀でクビを宣告されるのが怖くて、結局何も聞けずに終わってしまった。


ほかの講師たちは×がいっぱいついているのに、その隙間を縫ってシフトを入れている。

7時以降×を入れているにもかかわらず、7時までの授業を入れられている講師もいる。


なのに、自分は週1なのだ。

ということは何らかの因果関係があって、このシフトなのだ。


しかし、因果関係のもととなる原因が何なのかは、わかるようでわからない。

原因は全て自分が予測したものに過ぎないため、因果関係に明確な論拠がないのだ。


明確にいえるのは、自分またはそれ以外に何らかの「原因」があって、週1のシフトという「結果」が生じたということだけだ。

これが自分で簡単に修正できる原因ならば、すぐに修正して臨み、結果を変えることができよう。

しかし、およそ修正不可能な重大な原因であれば、何をやっても結果は同じだろう。


この原因を室長に直接聞くこともできるが、上記の理由でなかなか聞けない。

もし、修正不可能な原因を突き付けられ、これが修正できなければ君はクビだといわれることも考慮に入れれば、すぐに聞くことは藪蛇だろう。

しかし、原因は自分にあるのか、それとも新たなバイトが入ってくる等の政策的判断か、これだけでも知りたい。

4月のシフトごときでこんなに動揺してはいけないと思いつつ、やはり小心者の自分は気になる。


そもそも、このシフト表は、外の皆が見える場所に張り出されており、あまり好きではない。


シフト表を見ると、別な理由で「嫌な気持ち」になるのだ。


学生講師たちが、アルバイトとサークル、学校とのバランスを考えてシフトを組んでいる。

こういうのを目の当たりにすると、いろいろ想像し、辛くなるのだ。


学業優先とは言っても、アルバイトでお金を稼いで、サークル活動や飲み会、デートや旅行など、学生らしい遊びも同時にこなして学生生活を謳歌している。

塾では生徒に偉そうに勉強しろと言っているくせに、自分は旅行やコンパなどにうつつを抜かしているのである。


自分ももっと楽をしていれば今の人生がどんなにか変わっただろうと、つい思ってしまう。


学生時代から10年くらいは、まさに自習室一色だった。

「自習室と自宅の往復」だけに費やしたのである。


明けても暮れても自習室ばかりだった。

いつも大きなリュックに六法や教科書をはち切れんばかりに収めていた。

朝、択一の過去問を持っていくかどうかで逡巡し、切れたカバンの取っ手をガムテープと安全ピンでぐるぐる巻きにしながら、登山家か通信兵みたいな恰好で出かけた。

昼間は歩いて5分ほどの小さな公園で、夏は親が作ったおにぎり、冬はコンビニの肉まんとピザまんを交互に食べていた。

飲み物は100円自販機で買うジョージアのコーヒーである。


そんな生活では飲み会なぞ行かなかったし、いまだ居酒屋に行ったことすらない。


自習室の窓から見える本屋と定食屋の看板を思い出すと、今でも気が滅入る。


結局、その後も似たような生活を今まで続けてきたのだ。


択一に途中で合格しなければ、未練もなく止められただろう。

中途半端に択一に合格したがために、何年も費やすことになったのである。


択一合格というプライドだけが増幅し、結局、何も財産は残らなかったのである。


塾でも、1人、孤高の人を演じている。

ほかの大学生のガキより一段上にいる、そんな孤高の人を演じていたいのだ。

ただ、プライドだけでは演じきれない。

周りの学生講師たちが話をすれば、聞き耳立ててしまう。

講師の週末の予定なども、喋ったこともないのに、よく知っている。

スカート姿の女性講師が屈めば、その隙にスカートの谷間を覗き込んでしまう。

ほとんど見えないのだが、つい反射的に覗く癖がついてしまったのだ。


こういう姿がばれたのだろうか、だから、シフトを入れてもらえなくなってしまったのだろうか。

想像が想像を呼び気が気でならなくなる。