●動物実験はなぜ良くないか、止めるための布石●

●はじめに

 動物実験は手段を選ばずに、動物を生きたまま解剖して殺すと言うような、人間としてしてはいけないことをしているわけなので、「動物を生きたまま解剖して殺すのは良いことだ」という道徳的規範が普遍的でないとされる以上、止めるべきであると言うことは当たり前の事である。そして、動物実験が無くなったからといって、その事が直接的な原因で我々の生活が今より悪くなくなる訳でもないだろう。しかし、動物実験が治療方法に直結する場合もあり、人間の自己保存に本能的に結び付くような理由での、言わば脅迫めいた動物実験への反対への反論もその利害関係者から行われている。しかしこのような反論は自己保存に関係するために一見正しいように見えることが理由で、少なからずの支持を集めているのも事実だと思われる。そこで、そういう反論の事実関係について詳細に検討し再反論することが今後の動物実験の反対への、重要な課題だと思われる。そこで、ごく一部であるが、ある程度具体的に動物実験の利害関係者の主張る内容を検討してみた。


●動物実験に反対することとその責任

 動物実験が無くなると薬の開発が出来なくなったり、開発の速度が遅れると言う利害関係者による主張があるが、例えば、薬の開発者が休んだりサボったりして、薬の開発が遅れたか らと行って、あるいは薬の開発を断念したからといって、薬の開発者が患者やその家族から責任を問われるという事はありえないだろう。それと同じ理由で、動物実験をなくして薬の開発が出来なくなったり、開発が遅れたからといって誰もが責任を問われることもあり得ないだろう。つまり、「薬を待つ患者に対する責任」という思考実験はそれが出来るかどうかわからないものを根拠にしており、そこに批難の目を向けるのはあきらかに詭弁で有りカテゴリーミステイクである。何故なら実際は薬の開発に何年もかかり、薬として承認される確率も 25000分の1位であり、どう見てもその患者に適合する薬が作り出される確率は非常に低く、この思考実験の実現可能性は殆ど無いに等しいと言えるだろう。だからこそ、開発が遅れたからと行って誰も責任を追及出来ないということになる。つ まりこの問題設定が非現実的な詭弁的設定と言える。


●動物実験と人体実験と種差別

 また、この問題について別の観点からいうと、病人は健常者より優先されるのかと言う問題がある。仮に、ある臓器がいるからといって、手段を選ばず他者の臓器を無理矢理奪い取ることは許されることはないだろう。これは、病気が緊急事態だとしても緊急避難も適用できないことを意味している。薬の開発に置き換えても同じである。他者を助けるためだとしても人体実験して人を殺してよいとはならない。

 では、人体実験ではなく動物実験ではどうだろうか。その前に考えておかなければならないことがある。それは動物も人間と同様に苦痛を感じる能力があると いうことである。そして、人間が苦痛を良いこととしない以上、人間にも動物にも苦痛を与えてはいけない。つまり、動物だから動物に苦痛を与えて良いという理由はその属性を理由とした女性差別や人種差別と同レベルの種差別でしかない。

 そして、この観点からの薬を待つ患者に動物実験ができなくなったので薬は作れないということが言えるのかという問いは、薬を待つ患者に人体実験ができなくなったので薬は作れないということを認めないことと同じ構図である。だから、動物実験を止めることは認めないが、人体実験を止めることを認めることは、苦痛への配慮、非差別、一貫性があること、と言う普遍妥当な規範を共通の認識として共有できる人間にとっては差別でしかない。

 つまり、この事は、この問いの前提が差別に立脚しており、また、患者がどう思うかという基本的な考えにおいても、患者の考えを無視して、しかも患者を差別主義者に 仕立てており、二重の不正に基づいたジレンマで混乱させている。従って、この命題自体がやはり不正であるといえる。つまり、詭弁である。従って、この不正を 追求するべきであるとなるだろう。

 そして、もし患者が上記のような誤解に基づいて、動物実験の廃止や遅れを批難した場合もあるだろうが、それを非難するのであれば、そういう患者はむし ろ、自分たちのために娯楽で休暇を取る研究者や、サボっている研究者、でっち上げの論文を書いて研究を進めようとする研究者等の動物実験をしなくては薬を 製造できない企業や、その努力を怠ってきた研究者を批難すべきだろう。彼らが、明らかな動物利用という不正を必要悪と主観的に正当化しないで、不断の努力 を続けていれば、おそらく開発の速度は動物実験が無くなった場合よりは速くなっており、その患者が助かる確率は確実に上かっていたのだから。


●脅迫めいた動物実験への反対への反論

 「言わば脅迫めいた動物実験への反対への反論」という上記の文頭での発言の説明と、動物実験が何故悪いかと言うこととどのように行動すべきかと言うことを検討してみた。


●動物実験は金儲けか

 まず、動物実験は何のために行われているかと言うことを考える必要がある。一般的に企業・法人は営利が目的である。製薬会社とて一般の企業・法人と変わらず営利目的である。つまり、金儲けが目的である事は事実である。もし、患者のためであるなら、お金を儲けようとしない非営利法人やボランティアで行われているはずである。この事からも、事実上、他の企業と同じく利益追求のため薬を開発し製薬し販売している営利団体でしかない。そしてここでの議論の意味することは、金儲けが悪いといっているのではなく、金儲けの為に、動物を生きたまま解剖した挙げ句の果てに殺すという、手段を選ばない態度が不正であると言っているのであり、その不正を隠そうとするための、患者のためであるとか、人類に貢献するためと言うような詭弁を使うべきでないと言っているのであり、この事には充分に留意する必要がある。

 そして、もし動物実験の利害関係者が言うように、製薬会社が金儲けのためでなく患者のために製薬しているというのであれば、金儲けでない製薬が多岐にわたって、すでに存在しているはずである。そして利潤追求でない形で患者に配布されているであろう。しかし、そのような非営利法人や配布する組織はないといえるだろう。結局、上記のことからも製薬は営利目的、つまり金儲けのために行われているといえる。

 そして、動物実験が普遍化可能な常識的な行動であるかどうかを考えると、差別主義者や苦痛に配慮できない人間以外は、金儲けの為に、生きたまま動物を解剖することが常識ある行動とは思わないだろう。それを平気で肯定する、そこが動物実験研究者の言い訳や詭弁や論点のすり替えに結び付くと思われるところである。

金儲けの為に犬を残虐に生体解剖して殺すのは良いことだ。
金儲けの為に女性を残虐に生体解剖して殺すのは良いことだ。
金儲けの為に黒人を残虐に生体解剖して殺すのは良いことだ。
金儲けの為に子供を残虐に生体解剖して殺すのは良いことだ。
金儲けの為に猫を残虐に生体解剖して殺すのは良いことだ。
金儲けの為にうさぎを残虐に生体解剖して殺すのは良いことだ。

 上記は良く有る、簡単な普遍化可能性テストだが、おそらく、差別主義者や苦痛に配慮できない自分勝手な人間以外は、全部間違っていると指摘すると思われる。つまり、これらは普遍化不可能だと言うことである。逆に言えば動物実験の論理が普遍化不可能だと言うことである。(「良いことだ」というのは違和感を覚える人がいるかもしれないが、これは「~するほうが良い」「~すべきだ」という意味なので、結果的に容認して「良い」と言う結論が出ているので「良いことだ」を使っており、また、そのことをはっきりと理解した上で、価値判断をつけやすくするために使っている。)


●何故動物実験に賛成の人がいるのか

 しかし、一般の人が動物実験に賛成の人も多数いるのは事実である。これは上記の結果と矛盾することになるのだが、それには一つの原因がある。一般人が動物実験に賛成するかもしれない理由として上げられるのは、金儲けの為の動物実験側からの、一種の脅迫があるからだ。その脅迫とは、「動物実験がなければ薬を作れないのでそうなったらお前らは困るだろう」という、他に苦痛と死という選択肢しか無いような脅迫もしくは事実上の脅迫である。しかし、その前提になる、今動物実験が無くなっても、それが原因で直接的に人間の生活がより悪くなる訳ではない事を考慮していないことに気づくべきだろう。

 したがって、その不正な脅迫の上に成立する、或いは自己の利益のみを考える、言わば毒まんじゅうによって歪められた一般大衆の選択する道徳的な価値判断、つまり、いわゆる常識は正しいとは言えないだろう。そして、その原因を作り出したのが薬の開発者達で、動物を物とするような過去からの慣習で動物を物扱いし、切り刻んできただけでなく、物言わぬ動物を良いように、自分達の都合良く利用して殺す、まさに、物言わぬ動物を自由に扱える動物実験は動物実験関係者にとって甘い蜜の味であるといえるだろう。その甘い汁を金儲けのために止めることができず代替法も考えなかった結果、多くの場合、動物実験なしで開発できないという結果を招いている訳である。これは結果的に、自分達で動物実験なして開発できなくしておいて、動物実験が無くなれば薬を作れなくなると主張するやり方は不正な行為で有りフェアなやり方とはいえない。


●日本生理学会の主張と言葉の入れ替えテスト

 こういった、偽善的な言い訳をする動物実験関係者のどこに正統性があると言えるのだろうか。それこそ、上記の普遍化可能性テストが示すように マッドサイエンティストの成せる技と言われても仕方がないだろう。これを示すような文章が日本生理学会から出されており、それを言葉に入れ替え(動物→黒人、動物実験→人体実験)による思考実験をしてみた。

 『私たちの生存を守る医学の発達は黒人の人体実験によって成り立ってきました。 ヒトの健康と福祉を追求する医科学研究にとって黒人の人体実験は必須の手段です。 私たち人間が現在のように存在し生活できるのは、今までに行われてきた黒人の人体実験のおかげといっても過言ではありません。 一方で、黒人の命を犠牲にする黒人の人体実験に反対する立場もあります。

 実験に利用される黒人がかわいそうという思いは人間として当然であり、 実際その感情は私たち研究者も共有します。しかしそういう感情を大事にするとともに、 自分たちが受ける医療や服用する薬がどのように黒人の人体実験に依存しているか、もし黒人の人体実験がなかったらどうだったか、 もし必要な実験が制約を受けることになったら今後どんな事態が予想されるか、といったことを理性的に判断することも大切です。

 医科学研究における黒人の人体実験は国民が真剣に考える必要のある重要な問題です。 日本生理学会では会員のほとんどが黒人の人体実験に携わっています。 そこで私ども日本生理学会が黒人の人体実験をどう考えているか、見解を示しご理解を求めます。』 以上置き換えテスト。

 正常な人間であれば、言葉を入れ替えただけで、彼らの論理の残虐性や異常性がわかると思われる。この異常性がわからないで平気でこういう論理を書ける人たちの集まりが日本生理学会であり動物実験関係者なのだろうか。

 また、こういった言葉の入れ替えによった思考実験に付き物の、「擬人化している」というような批判はよく見られるが、擬人化は人間固有の能力を他の存在に当てはめることである。例えば、人形を人間のように扱う事当、人間に有る能力がないのに人間同様に扱うことである。だから共通の能力の有る人間を人間のように扱うことは擬人化とは呼べない。したがって人間同様に苦痛を感じる能力がある存在の苦痛に関して人間同様に扱うことは擬人化とは言えないし、それが妥当でないとも言えない。上記の黒人の例は差別という普遍的性質についての思考実験であるから、被差別者が苦痛を感じる以上、苦痛を感じるものはその範疇に入るだろう。


●動物実験に反対であるならば、一切の医薬品を使うな

 また、これとは別に、こういった動物実験関係者からの同じような脅迫にこう言った事がよくある。みんなが一番興味のありそうな部分であると思われる。「動物実験に反対であるならば、一切の医薬品を使うな」という普遍化可能性の原則(首尾一貫しているかどうかを追求する議論)による議論であり、動物実験関係者やその擁護者等から提起される場面を良くみかける。

 この場合二つの反論の可能性がある。一つ目は「我々は医薬品の開発に反対しているわけではなく、不正な動物実験に反対しているのである」と言う理由である。つまり、これも普遍化可能性の原則による議論だと、医薬品の開発や医薬品の存在自体に反対するのであれば一切の医薬品を使うべきではないと言う事になるのであるが、医薬品の是非ではなく不正な動物実験に反対しているのであるから、直接的には普遍化可能性の原則は適用出来ないということになるわけである。そしてその不正に関する責任は、上記の普遍化可能性テストのところでも説明した通り、開発者側にあると云うことである。ちなみにそういう主張をする人は、同じ構図である「原発に反対であるならば電気を使うな」という論点がすり替わった議論にも賛成せざるを得なくなり、当然、原発にも賛成するか電気を使えないことになるだろう。

 もう一つは、「不正な動物実験によって開発された医薬品は不正な開発にもかかわらず誰もが使っている」という事実があると言うことである。つまり不正な動物実験をして開発をしているのは企業や研究者であり、その責任は彼らにあるわけで、我々、消費者には何の責任もないということである。さらに、この事実は消費者には、現実的に動物実験をしていない薬を選ぶという選択肢さえほとんどない事を意味している。そして、他に選択肢の無い状況を認識しながら薬を使うなと言うことは、相手に「死ね」と言っているのと同じであり、自己保存が優先される以上、動物実験を認めることを強要しているのと同じである。つまり、例えて言えば、全てにおいて自己保存が最優先されることになるのであるが、「動物実験に反対であるならば、一切の医薬品を使うな」ということは「地球温暖化に反対すると言うのであれば息をするな」という、他に「死」以外に実質上の選択肢がないことを要求するという事であり、上記での恐喝と同じく同じく不正な要求であると言うことが出来る。つまり、医薬品の選択において、動物実験した医薬品しかないということは、その当事者である研究者や企業が我々の(不正な手段で出来た医薬品を使いたくないという)選択肢を奪っている事になり、その事実を踏まえながら我々に「じゃあ動物実験に反対であるならば、一切の医薬品を使うな」と言うことは、崖の前でピストルを突きつけながら、手を挙げるのが嫌なら、あなたにはビルの屋上から飛び降りる自由があると言っているようなものである。

 そして、「不正な動物実験によって開発された医薬品は不正な開発にもかかわらず誰もが使っている」という事実は、自己保存に関して、不正な動物実験で開発した薬しか選択肢がない以上、誰もが使わざるを得ないと言う事にしかならないと言うことである。つまり、この事実はその薬を使用したとしても、意志に反して自己保存のためにやむを得ず、緊急避難措置として使っているだけであり、その事実を持って不正な動物実験を許容する事にはならないことを意味している。

 分かりやすく言い換えると、本来は不正を善しとしない人間であるならば、誰もが「不正な動物実験」によって作られた薬は使うべきでないとなるわけであるが、普遍化可能性の原則からの議論でも、誰もが自己保存を最優先させるべきなので、緊急避難的措置として何人も薬の使用は問題ないことになるのである。そして、緊急避難的措置の状態を通常の状態にするには、速やかに動物実験なしで薬の開発をすべきであると言うことになる。だからこそ、どうしても医薬品が必要な人は、気兼ねなく動物実験をしていない薬を使うためにも、動物実験をせずに薬を開発するように要求すべきなのである。ただ、いくら薬を使う事に問題が無いと言っても、薬を買うことは製薬会社に資金提供をすることに成り、更なる不正な動物実験に繋がる可能性があるため、必要最小限には止めるべきだろう。

結局、人間と同じように苦痛を感じることの出来る存在である動物を金儲けのために生きたまま解剖して殺すことは良いことではない。製薬会社に限らず、お金を稼ぐために仕事をするのは自由だが、いくら金儲けのためとは言えど手段は選ぶべきだと言えるだろう。


●動物実験関係者の問題点

そして、そのことを象徴するかのように、最近ではこういう事件もあった。 「スイス製薬大手の日本法人ノバルティスファーマ(東京)が医薬品医療機器法(旧薬事法)で報告が義務づけられた重い副作用を期限内に国に報告していなかった問題で、厚生労働省は27日、同社に15日間の業務停止を命じたと発表した。期間は3月5~19日。(http://www.nikkei.com/article/DGXLASDG27H8K_X20C15A2CR8000/)」とこのような事件があったが、これも、患者のためではなく金儲けのためといえるだろう。

 しかし問題はそこで終わるわけではない。この、上記でも説明したとおりの金儲けのためである動物実験の、3RのReplacement(動物実験の他の方法への置き換え)は散々否定しておきながら、金儲けのためという都合の悪い真実を、さも人間のためであるように論理をすり替えて「置き換える(Replacemant)」ような、偽善的詭弁、つまり反道徳的な行為は、「金儲けのために手段を選ばず動物を生きたまま解剖して殺すことは良いことだ」という理念(そういう理念がなければ動物実験自体が存在し得ないはずだから)に基づく動物実験が、道徳的不正なことであり、その悪意を涵養することによって、当該当事者の道徳的な悪意があらゆることに影響を与え、この場合、それが副作用報告義務に影響を与えているということは言えるだろう。これは動物虐待をすることによって、その残虐性を涵養することにより、人間にもその影響を与えてしまった、川崎・多摩川中1殺害事件と、具体的内容は違えどほぼ同じ構図でではないだろうか。「目的のためなら手段を選ばない」というこの両者の構造的な欠陥の問題といえるだろう。


●動物実験廃止に向けての基本的行動

 そして、このように、検討されてきた動物実験は、普遍的に悪であるという事実が、動物実験廃止の原動力になるわけで、動物実験が必要悪であるとか動物実験が正しいとか、そういった理由で動物実験は廃止でき無いと思われる。何故ならそれでは動物実験を廃止する動機になる理由が全くないからである。動物実験は良いから止めようではまるで一貫性はなく、全く筋が通らないからだ。本気で止めさせたければ、動物実験は普遍的に悪だから止めるべきなのであり、そう主張すべきである。



2015/03/14 加筆




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