①「実家の家業」
②「特に好んで描いた動物」
③「現在、御物となっている相国寺に奉納した代表作」
④「『若冲筆投げの間』と呼ばれる方丈がある寺院」
⑤「平成28年若冲の原画を元に
見送りを新調した祇園祭の鉾の名称」
以上を含み150~200字以内でまとめる。
江戸中期の京都の画家・伊藤若冲は、
錦小路高倉の①青物問屋の長男として生まれた。
父の死後、23歳で家業を継ぐ一方、
絵を狩野派に学び、日本や中国の古典の名品
を研究しながら、自らの眼で身近な花や鳥を観察し、
独創的な絵画世界を切り拓いていった。
中でも庭に放し飼いして観察を徹底し、
あらゆる姿態を自在に描けた②鶏は、
得意にしたモチーフだった。
40歳で家督を弟に譲り絵に専心し
およそ10年をかけて完成させ、
相国寺に寄進したのが
「③動植綵絵(ドウショクサイエ)」30幅であり、
生きとし生ける動植物を精緻に描いた
濃彩鮮やかな絵画は若冲畢生(ヒッセイ)の名作である。
明治22年に宮中に献上され御物となった。
写実を超えた花鳥画の一方、
水墨画も多く描き、鹿苑(金閣)寺・大書院障壁画
は代表的な水墨画の遺作。
得意にした鶏は、彩色画・水墨画とも数多い。
円山応挙と並び称された
同時代の画家の中でも人気を博したが、
天明の大火で居宅焼失後は、
伏見深草・石峰寺門前に隠棲、
「米一斗」と「絵一画」を交換する
斗米庵(トベイアン)・米斗翁(ベイトオウ)の号通りの生活を送った。
④海宝寺(伏見桃山)には、
最後の障壁画と云われる水墨画「群鶏図」
(現・京都国立博物館所蔵)を描いたと云う
「若冲筆投げの間」がある。
寛政12年に没し、石峰寺に土葬された。
生誕300年にあたる平成28年、
祇園祭の⑤長刀鉾の見送りが
若冲の「旭日鳳凰図」(宮内庁三の丸尚蔵館所蔵)
を基に新調され、新たな話題が添えられた。
まとめると・・・
錦の①青物問屋に生まれた伊藤若冲は、若くして家業を継ぐものの、商いよりも絵に興味を示し、40歳で弟に家業を譲り、絵師の道へと進んだ。写生に情熱を注ぎ、特に②鶏を好んで描いた。相国寺に奉納した代表作「③動植綵絵」は御物となっている。晩年は伏見に住み、④海宝寺には最後の襖絵を描いた事から「若冲筆投げの間」と呼ばれる一室が残る。平成28年の祇園祭では、⑤長刀鉾が若冲の原画を基に見送りを新調し話題となった。