久しぶりに乗る馬は巨体に感じ、馬上の目線は思ったより高かった。馬の制御にいくらか戸惑ったが、馬の扱いなど、女真(じょしん)の誇りがすぐに思い出させてくれるだろう。

阿列(あれつ)の進路は」

 (かい)(りょう)(おう)が、馬にたたらを踏ませながら言った。

「街道をまっすぐこちらに向かっております。あと一刻ほどで到着するかと」

「よし。千、いや二千騎を街道右の森に埋伏。残りを三隊に分け、二隊を左右の原野に展開。朕自ら一隊を率いて正面に布陣、阿列を迎撃する。阿列が朕に向かい駆けてきたところで、森の二千が退路を塞ぎ、左右の二隊が阿列を挟撃し殲滅。まあ、一千など半刻も持ちはしないだろうがな」

 伝令が、駆け出していく。

 布陣は速やかに完了した。

 しかしあの阿列が造反とは。(かい)寧府(ねいふ)と呼応したものなのかは不明だが、梁山泊(りょうざんぱく)の残党を引き連れて賊に身をやつすとは、愚かな末路である。異例の抜擢で総帥の地位を与えたが、所詮は契丹(きったん)族の田舎者か。故国遼のように、先を見通せずにその身を散らすのか。まあ、岳霖(がくりん)を追い払い多少の役には立ったので、墓の一つでも建ててやろう。

 そんなことを思い浮かべながら、一刻は過ぎていった。

 街道の彼方から、地響きが聞こえてきた。

 やがて、馬軍(うまいくさ)が見えてきた。先頭を二騎が駆けている。海陵王は目を凝らした。一人は阿列。もう一人は、胡土児(コトジ)か。少し違うような気もするが。

 なるほど、胡土児が阿列を篭絡(ろうらく)し、朕に報復しようとしたのだ。胡土児は南征の前に片付けておくべきだと思ったが、忠烈王(兀朮(ウジュ))が南宋併呑の悲願の前には些事だと思え、と言ったので放っておいたのが間違いだったか。ならばちょうどいい。ここで阿列と共に葬り去り、忠烈王の霊前に供える花としてやろう。

 それにしても戦術も何もない駆け方だ。たった千騎で、一万騎の包囲に向かって、ひた駆けて来る。人間感情的になると、こうも盲目になるものなのか。

 海陵王は片手を挙げた。千騎が攻囲の中心に差し掛かったところで、その手を振り下ろした。後方に控えていた軍と左右に展開した二軍が、一斉に動き出した。圧倒的兵力が、千騎を呑み込もうとした。

 その時、海陵王は信じられないものを見た。

 驚くことに、阿列の隊は千騎をさらに分け、左右の軍に兵を向けたのだ。それぞれ『呼』と『秦』の旗が向かっている。分けられた兵はどう見ても二百程度だ。

「軍学にもとる。寡兵は小さくまとまり、損害を少なくしながら活路を見出すものだ。愚か者め」

 『呼』と『秦』の旗に向かって、容赦なく海陵王の騎馬隊が襲い掛かる。正面の阿列と胡土児に対しても、ほぼ同時にぶつかり合った。

 海陵王には、今、目の前で起きている事が、夢か(うつつ)か分からなくなった。何も判断できなくなり、それを茫然と眺めているしかなかった。

 味方の兵が、業火に近づけた雪のように溶けていく。一合も剣を交わすことなく、次々と落馬していく。味方は見る間に半数ほどになった。

 海陵王は、開いた口が塞がらなかった。

「こんなものは、戦ではない」

 それは海陵王が、震えながらもなんとか振り絞って、ようやく出した言葉だった。

 騒擾(そうじょう)の中、阿列と胡土児がほぼ同時に海陵王を認め、駆けて来た。海陵王は思わず身を(すく)め、馬から落ちそうになった。

 二人と海陵王の間に、味方が数百騎割って入り、遮った。

「陛下、ここは危険です。こちらへ」

 海陵王は手綱を引こうとするが、手が震えてうまくいかない。

「御免」

 兵の一人が海陵王の馬の手綱を掴み、駆け出した。海陵王は馬にしがみ付き無我夢中に駆けた。すぐに腿の内側がつって痙攣(けいれん)したが、どうすることもできなかった。