220730  差異と自己還帰  森有正『バビロンの流れのほとりにて』 | 思蓮亭雑録

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遥かに行くことは、実は遠くから自分にかえって来ることだったのだ。これは僕に本当の進歩が意味してはいないだろうか。それとも本当に僕の「自分」というものがヨーロッパの経験の厚みに耐ええて、更に自分を強く表わしはじめたのだろうか。今僕はこの質問に答えることができない。これに答えるにはおそらく数十年の歳月がかかるだろうからである。ただ僕は、自分の中に一つの円環的復帰がはじまったことを知るのである。よかれあしかれ、これが自分だというもの、遥かに行くことは、遠くから自分にかえってくることなのだ、ということである。そして、この遠くからかって来た自分は、旧い日本にかえったのではなく、自分にかえったのだ。そしてその内容は、もう日本ではなく、ヨーロッパと感覚的に結びついてしまったのだ。 77f.

👿 一般的に言って、自らの外に出て外部の形象に自身を見てその否定を通して自らに戻って来るという反照的運動は自己の形式的な構造だろう。
👼 そうだね。ただ、それが内容をもった経験として現実として生起するという場面、つまり生きるという場面では困難な問題を孕むんじゃないかな。
👹 例えば、森有正の生涯はフランスあるいはヨーロッパとの対決と言えると思うんだけど、そのように異文明と対決して自らに還るというのは容易いことではない。
👼 文明の差異をへんに実体化すると「文明の衝突」のような浅薄な議論になってしまうけれど、「グローバリゼーション」とか「ボーダーレス」とかいうのは破壊的に軽薄だね。
👹 「グローバリゼーション」というのは帝国主義の一形態であって、その意味では「文明の衝突」と表裏だからね。
👿 文明というのはある種のスタイルで、その意味で身体的なものだと思うんだ。その点で文明の差異にはとてもなまなましいものがあるし、それに対する反応は軽薄なものになりやすい。
👼 それは近代日本にとって切実な問題だったはずだよ。ところが日本はその問題を回避した。それで車が売れたくらいのことで欧米に追いつき追い越したと思ってしまう。
👹 まあ、もちろん、同じようなことはヨーロッパやアメリカの方にも言えるわけで、欧米が文明の差異をいかに軽薄に扱ってきたかということは『文明の衝突』以降、実際の痛みとして体験しているにもかかわらず、ロシアのウクライナ侵攻にあたっても変らないように見える。
👼 そうだね。軽薄は欺瞞ということだ。例えば、欧米通の日本の知識人が奇妙に日本回帰してしまうことがあるね。近代日本の欧米への偏頗な愛憎の一形態だと思う。
👿 そこには差異ということそのものを尊重する、あるいはむしろ畏れるという感覚、誠実さというものはないね。
💩 文明というのは身体的なものだから、差異への畏れ、誠実さはまた身体的なものとして現われる。森はまずその身振りそのものを模索していたのかもしれない。そして自分に還る自分の運動に気づく。だけど、おそらくその還る先はある意味でもはや無い。というのはその還る先自身が差異であり、無底だからだ。そのような意味で自分というのは浮動と言えるんじゃないかな。先の日本知識人の日本回帰というやつはこの浮動に耐え得ないということじゃないかな。そこで何か内容的なものに仮託して自らを保とうとする。軽薄さは弱さの兆候だろうね。

 

A Syrian boy, displaced with her family from Deir Ezzor, looks at the camera inside the damaged building where she is living in Syria's northern city of Raqa on June 18, 2022. (Photo by Delil Souleiman/AFP Photo)

これもまた僕たちの軽薄さが生んでいることではないだろうか。