[本] 標準値の枠の外 / ギフテッド | そっとカカトを上げてみる ~ こっそり背伸びする横浜暮らし

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大きな挑戦なんてとてもとても。
夢や志がなくても
そっと挑む暮らしの中の小さな背伸び。
表紙の手ざわりていどの本の紹介も。

相互読者登録のご期待にはそいかねますのでご了承ください。

 ニンジンやキュウリは刻んで使うので、曲がっていても太さが一定でなくても選ぶ時にこだわりはありません。なにかと値上げが続いているので、形のそろっていない手ごろな値段の野菜は家計の支援者です。

 こうした野菜を目にする機会がふえたのは、値上げラッシュばかりが理由でなく、年々強まるフード・ロス削減の動きが追い風なのでしょう。ニンジンとキュウリに限らず、これまで棄てられてきた規格外・基準外の食品を利用する活動がしばしばTVで紹介されます。

 なかにはフードロスになりづらいように長期保存できる包装に変えるような工夫もありますが、多くは用途や需要を探す視点、つまり同じ食品がものの見方で価値あるものに変わっています。


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 ものの見方ひとつで価値が見直されるのは、なにも食品ばかりではありません。あらためてそう気づいた一冊でした。読むうちに人の価値は何かと問われました。いわば人材ロスの問題です。

 

 

ギフテッド / 藤野恵美 (光文社)
2022年刊
お気にいりレベル★★★☆☆

 森川凛子は独り住まいの部屋でフリーランスで翻訳業をしています。地方の公立高校を経て国内一といわれるT大を卒業、一流企業に勤めたものの職場に馴染めず退職しました。

 凛子の妹は、医師と結婚して小4の莉緒を頭にまひる・真之介の3人の教育に奔走しています。莉緒が周りとなじめず、真之介の言葉が遅いことで気苦労が絶えません。
 特に莉緒は中学受験を予定しているのに受験どころか学校で問題児扱い。塾に通っても成績にムラがあり、父親の希望する女子校の合格などおぼつきません。母親が叱っても莉緒の論理的な反論に母親がやりこめられて二人とも不機嫌になるばかりです。

 手に余った母親は、莉緒を幼い頃から知り、彼女とも気の合う姉の凛子に家庭教師を頼みます。凛子の目にも、莉緒は読書と昆虫が好きな好奇心旺盛な少女に映る一方で、勉強にしても学校・塾・家庭での人間関係にしても論理的である一方で融通がきいていません。


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 凛子には忘れられない少年がいます。天文学をはじめ物理に詳しい少年です。突然転校して姿を消してしまいました。凛子は大人になっても手がかりを求めてきましたが、未だ彼の消息は知れません。
 その少年も、莉緒と同じように優れた能力をもちながらも、家族や級友としっくりいかず、生きづらそうでした。

 この本では、先天的に平均よりも顕著に高い能力を備え、特定の分野で並外れた才能を示す子供をギフテッドと呼んでいます。
大人目線(育児目線)からみた子どもへの期待と、子ども目線(成長目線)からみた親の言動の不合理・理不尽との合意点がなかなか見出せません。
 彼らの置かれている状況を、凛子の目を通して、公立学校の教育、受験、人間関係、親子関係、社会的価値観、医学・医療、経済格差、子ども自身の視点 etc.、さまざまな角度からとりあげます。

 ギフテッドも、多様性の受容といったひと言で片が付く課題ではないことが、莉緒という特定された登場人物の向き合う課題や周りの対応を通して容易に理解できていきます。
 ラストシーンの意外な展開に、希望の兆しがこめられています。それでも規格外の人の人生は一筋縄ではいきそうもないと心配してしまいます。


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 ギフト(Gift)が天賦の才としても、周りの無知、誤解、保身、人出不足、期待など好意的も悪意でも、その才能を活かせるかどうか、活かす確率を高める仕組みは確立しているとはいえないようです。さらに、本人が未熟な時期に自分がギフテッドと知った場合の反応も効果的に作用するとは限りません。


 ギフテッドの莉緒が地方出身でT大卒の凛子と気が合ったのはなぜでしょう。
 凛子も莉緒も周りとの人間関係に苦労したのはなぜでしょう。

 多数派の考えや行動を標準として、そして標準=善とする思考回路が社会生活の中で、無言のうちに醸成されてしまったら、多数派がその枠の外にある少数派の存在を視る目は、違い=悪、として共通認識になりがちです。


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 さらに、この本でいうギフテッドのように、先天的に平均よりも顕著に高い能力を持たない者、持っていても気づかれない者は多数派との違いが何であれ、さらに生き辛さが待っていそうです。生まれてきただけで、生きていてくれるだけで、人に何かを与えてくれると感じる体験は珍しいものではありません。
 自力であろうが、公私問わず支援を受けようが、将来、なんとか食べて生きていける暮らしに漕ぎつけなければなりません。

 

国力を増強するための教育と、個人が幸せになるための教育は、別物だと思うんですよ

 この小説の登場人物のひとりにNPOを切り盛りする男性の言葉です。塾に通えない子や不登校の子の学習・進学を支援している、元予備校講師です。
 彼のNPOの名前は『ライ麦畑』です。アメリカの作家J.D.サリンジャーの『キャッチャー・イン・ザ・ライ(The Catcher in the Rye)』(1951年)からとられました。

 その主人公で語り手の16歳の少年ホールデン・コールフィールドが、成績不良で何度目かの高校退学をさせられたクリスマス直前の時期に、こんなセリフを口にしています。

 

(だだっ広いライ麦畑でたくさんの子どもたちを遊ばせているときに)
前をよく見ないで崖の方に走っていく子どもなんかがいたら、どっからともなくあらわれて、その子どもをさっとキャッチするんだ。そういうのを朝から晩までずっとやっている、ライ麦畑のキャッチャー、僕はそういうものになりたいんだ。


 ギフテッドではないけれど、周りの人びととうまくやれないホールデンは、規格外の自分の言動を崖に向かって走っていると認識していて(しかも崖は近い?)、いますぐ目の前にいて欲しい人(キャッチャー)を自分の将来の夢として語ったのだ、と私は思っています。

 

 

キャッチャー・イン・ザ・ライ / J.D.サインジャー著 村上春樹 訳 (白水社)


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