12月10日(日)☀️ 11626歩、筋トレサボり

朝飯は自炊。ご飯。
昼飯も自炊。ご飯。
晩飯も自炊。焼きうどん。
買い物はなし。メガネを買ったけど、母親に出してもらった。今週の買い物は、水曜の西武2571円、土曜の西武3363円、土曜のスギ薬局3890円で、合計9824円。

朝は1時に起きた。風呂に入り、ご飯を食べ、ブログはサボってすぐに寝た。また起きて6時。今日は会社に行く用があるので、支度して出発。7時40分ころに出社。今日は床掃除がある日。すでにちょうど業者が来た時間で、さっそく掃除に入ってもらった。全フロアの鍵を開けて、8時半にいったん帰宅した。その足でついでに足羽山動物園まで歩いてきた。いつもやっていることはちゃんとやらないと。で、10時ころに帰宅。

今日は予定が一杯。11時から眼鏡を買いに行くとかで、親が来ることになっている。でもなかなか来ない。12時になってもの来ないので、先にご飯を食べると伝えた。で、自分で炊いたご飯を食べた。1時30分すぎにようやく到着。そのままメガネ屋さんに行って、選んできた。

会社から電話が何件かあった。掃除の業者からは、もう少しで終わりそうと電話があったが、眼鏡屋にいるので「行けないので先に終わっていて」と言った。会社から電話も。今日は市長選があった日で、ライフ配信をするので、その準備を手伝ってほしいと来た。もうしばらくしたら行くと伝えた。

メガネを選び終わって、そのまま会社に直行した。で、しばらく準備を手伝って終了。帰宅して、ご飯を食べた。

夜8時のライブ配信を見た。自分の作った小道具が使われていた。うれしい気分。で、11時すぎに寝た。ではコラムを。

■思考のハギレ(659) 何を「やらなかったか」も価値になり得る

人生は短い。「命は槿花(きんか)の露の如し」ともいう。槿花とはアサガオのこと。人の命は、アサガオの花におりた露のように儚いという意味である。アサガオというだけでも儚いイメージがあるのに、その花におりた朝露だというのだから、日が昇ると消えてしまうもの。儚いものの上にできた、さらに儚いものということになる。

それだけ短いのが人生ということだが、私たちはその人生の中で、「我ここにありき」という何かを残していかなければならない。何かの業績のようなものを残さないといけないのである。「何をやったか」がその人の価値になるというのはもちろんだが、それは「何をやらなかったか」ということにもなると思っている。

この世はとかく誘惑が多い。ボーッと過ごしていると、その誘惑の餌食になってしまって、自分が本当にやるべきことをやらずに終わってしまう。一例を挙げれば、テレビである。朝起きたら「とりあえずテレビ」をつける。最初は特に見たかったわけではないが、いつの間にかテレビを見ているうちに時間が過ぎてしまった、ということにもなりかねない。

テレビを見ることが悪いとは言わないが、自分が「これをやりたい」という強い主体性を持っていなければ、ついつい時間を奪われてしまうシロモノである。受験生がテレビの虜になってしまったら危険であるが、それは受験生でなくても同じことなのである。命は槿花の露の如し、だからだ。「何をやったか」が価値であるということは、それをやるための時間をどのように作ったかというのも価値である。すなわち、「何をやらなかったか」も価値に直結するということだろう。