12月1日(金)☁️☂️ 16329歩、筋トレサボり

朝飯は自炊。ご飯。
昼飯も自炊。ご飯。
晩飯も自炊。焼きそば。
買い物はなし。10時出勤、6時30分退勤。

朝は4時に起きた。風呂に入り、ご飯を炊き、食べ、ブログを書いた。も7時をすぎていたので、慌てて散歩へ。プラごみを出してから出発した。ちょっと雨が降っていたけど頑張って歩いた。帰宅して、ベランダで新聞を読み、途中で寒くてギブアップした。部屋で続きを読む。コーヒーとアイスも味わった。

いい時間になったら支度して会社へ。10時からせっせと仕事。今日は月初で忙しい。いろいろ11月の伝票を起こした。お昼になったので帰宅。ご飯を食べる。また会社へ。12月だからみんなも忙しそうである。なるべく忙しいことには巻き込まれないようにしながら、仕事をする。

夕方は6時すぎにだいたい終了した。で、帰宅。今週も終わった。ご飯を食べ、動画を見て、布団に入る。最近起きるのが遅くなっているので、寝るのも遅い。なんとか10時くらいには寝た。ではコラムを。

■思考のハギレ(650) 災難にあう時節には、災難にあうのがよい

江戸時代の僧侶、良寛さんの言葉にある。「災難にあう時節には、災難にあうがよく候。死ぬ時節には、死ぬがよく候。これはこれ災難を逃るる妙法にて候」。新潟で、死者1500人以上という大地震が起きた。幸い良寛さん自身は被害はなかったが、知人が子どもを亡くした。その知人に充てた手紙に書かれているのが冒頭の文書である。

僧侶の言葉とあって、なんだか深い言葉だなとは思ったが、正直、なぜ災難にあう時節には災難にあうのが、「災難を逃るる妙法」なのかよくわからなかった。全然、災難を逃れられてないじゃん、と思った。それっぽい「深い」言葉を言ってごまかすのが僧侶の仕事なのかもしれない、と勘繰りたくなる気持ちが、なかったわけでもない。

しかし、最近ようやく、「こういうことかな」と理解できるようになってきた。小生も大地震ではないが、あの「コロナ禍」を経験して、すこし自分事としてとらえることができるようになったのかもしれない。2020年から始まったあのコロナ禍は、ようやく3年経って自分のなかで総括できるようになってきた。とにかく、3年前は、人生観が180度ガラッと変わってしまったような価値観の修正を迫られた。

被災した人に、「嫌なことは忘れて、元気出せ」と言われても、元気が出るわけがない。大切な人を亡くして、忘れられるはずがない。災難にあった人は、災難にどっぷり浸かることしかできない。「自分は災難になんかあっていない」と思おうとしたところで、それはただの強がりで、そんなこと思えるわけがない。良寛さんもそれがわかっていたのだろう。「禍も三年経てば用に立つ」という。災難にどっぷり浸かってしまっても、3年くらい経てば、ようやく自分の中で噛み砕いて消化できる。総括できるようになる。そして、振り返ってみれば「あの災難は自分にこういうことを気づかせてくれたんだな」と、今まで見えなかった世界を見せてくれたんだと思えるようになるものである。災難はたしかに災難だったけど、新しい視点を教えてくれたことで災難でなくなってくる。これを災難を逃るる妙法と言ったのではなかろうか。