7月30日
「東アジアのYASUKUNISM展」の企画
東京演劇アンサンブルさんによるリーディング「エピローグ?」を観に行った。


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これは
観るまで知らなかったのだけれど
東日本大震災の時に起こった原発事故を描いている作品で
作者のイェリネクは、ブレヒトやゴーリキーと違って、今も生きてらっしゃる方。。すごい昔の方だと思ってた(^^;;


リーディングを観て
なんて難解なのだろうと。。。
ひと言でも聞き逃せば、もう何が話されているのか分からなくなる。。
そして
必死で聞いていても、コトバが私の上を通り過ぎていくことがある。
観る側もコトバを捕まえる。それがこれほど難しいとは、思ってもみなかった。

お芝居は
ストーリーがある。
表情があり、物を使ったりした動作もある。会話もある。
でも
リーディングは淡々としていて
コトバがひたすら語られる。
だから、難解なのだろう。


舞台は、とてもシンプルで
椅子とフェンスがあるだけ。

そこに照明のライトが、、
怪しく、鋭く、悲しく、、彼らを照らす。


人を惹き込むには十分だ。


イェリネクの言葉は
私に
忘れかけていた、あの事故のことを
もう一度思い出させてくれた。
あの事故以来
秘密保護法や集団的自衛権、解釈改憲、安保法制など
次々と問題が起こり
政治がおかしな方向に進み
新しいことに、記憶が上書きされつつあったのだ。
もちろん、今でも原発には反対だ。
でも
あの惨劇、政府や企業の裏切り
悩み苦しむ人々のことが
少し、自分の中で過去のことになっていた。そんなはずはないのに。

それは
とても危険なことで
忘れるということがどれほど簡単か
それを突きつけられた気がした。


闇の中に、舞台を照らすライトの光。
静寂という言葉がふさわしいくらいの静けさの中で響く、凛とした声。

そこで語られる言葉たちは
私をハッとさせ
あの日の、あの頃の記憶を蘇らせ
時に胸にグサリと突き刺さった。

“この作品はここで終わる。ようやく完全に終わる。ひどいと言えないほどひどいことよりひどいものにはできないから。それを話すことはできない。それについて話すことはできるかもしれない。だがそれを話すことはできない。それを言うことはできるかもしれない。だが話すことはできない。(中略) 最後の日が来ればいい、とわたしは思う。そうか、来ていたのか、すでにわたしの背後にある!わたしはそれを知っていた!遅すぎる、いつものように。”
(引用:エルフリーデ・イェリネク「光のない。」(林立騎・訳)より「エピローグ?[光のないⅡ]」)


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私が一番印象に残った部分だ。
リーディングでは一部の言葉を削除・変更したらしいから
引用部分が、上演されたものと一致しているか、そこまでは覚えていないけれど
これはラストの言葉。
暗号みたいな言い回しだけれど
引用前半部分は理由なく、心に残った。なぜだろう。。
そして後半部分は
いまの日本や私たちが置かれている状況をそのまま言っていると思った。

そう、遅すぎる。
何か起きてから、慌てる、騒ぐ。。
私だってそうだ。
いつも、なんとなく楽な道を選択して、何も起きないことを祈って、それでも何か起こってしまった時初めて焦る。それの繰り返しだ。

今日午前中
川内原発が再稼働した。
信じられない出来事だけれど、現実のこと。
正気の沙汰ではないと、ある人がメディアで言ったそうだけれど

また、繰り返すのか?と思う。
目先の利益に囚われ、人の住めない場所をまた作るのか?と。
苦しむ人をまた新たに生み出すつもりなのだろうか?

動かなければ、声を上げなければと
自分の中で声がする。

遅すぎるってまた言わなくていいように
遅すぎたってなる前に。
光のないⅢを作らなくていいように。


いま、私たちは問われているのだと思う。
楽な道を選ぶのか
それとも、同じ過ちを繰り返さないようにと声を上げるのか。


ここまで原発事故そのものを深く描いた作品と出会ったのは初めてで
ものすごく現実を突きつけられた気がした。


この作品を観て
何を考え、どう行動するのか。

もちろん私は原発にずっと反対してきているし
今回の川内原発再稼働も、本当に腹が立つし許せない。

でも
この作品とどう向き合い、どう考えるかは
もう少し時間が必要かもしれない。


ステキな作品を書かれた、イェリネク
それを翻訳してくださった林立騎さま

そして
今回リーディングとして上演してくださった東京演劇アンサンブルのみなさんに
心から感謝します。