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信濃と越後の境に位置する北国街道・関川関所。
五街道のひとつに数えられる中山道の脇街道である北国街道は文字通り北国(明治維新後、明治天皇の江戸城に御入城により江戸城が皇居となるまでは京都が首都であったため「北国」とは現在の新潟県を含む北陸地方を指していた)と江戸を結ぶ主要な街道であった。
江戸時代、全国に32ヵ所あったとされる関所の中でも特に厳しい検問が行われた関所としては東海道の箱根(神奈川県)や中山道の碓氷の関所などが有名であるが、江戸に近い関東平野へ入る急峻な峠に設けられたこれらの関所は江戸への武器の持ち込み(入鉄砲)を重点的に取り締まった。
これに対し、この関川のように江戸から離れた関所ではむしろ江戸に「人質」の意味も込めて留め置かれていた諸大名の奥方などの国元への脱走(出女)の取り締まりが厳しかったという。
女性の旅は特に厳しく取り締まられ、手形の他に黒子の位置など詳細に記した証文を携帯しなくてはならなかった。そして関所では「人見女」という女性により見分が行われ、少しでも証文と相違があれば関所を通過することができず戻らなくてはならなかった。男装して関所破りをしないよう、若い美男の旅人も人見女の調べを受けることがあった。
いっぽう、国境を跨いで土地を持つ農民も珍しくなく、役人とも顔見知りとなっているため地元の農民たちの往来に対しては寛容だったようである。また、農民たちも自分の畑で収穫した作物を献上したり関所を通らず山道を抜けようとする者を発見した場合は通報するなど協力していたのであろう。
関川関所は信濃と越後の境を流れる関川の畔の越後側にあり、高田藩が管理していた。
高田から役人2名、配下の足軽、そして地元の郷士と人見女により構成されていた。
「のう、ご同役よ」
「何だな?」
「高田の御城下はかなりの大雪となったというが、こちらはいつもと変わらぬのう」
「さよう…もっともここは雪が深くて当たり前であるがな」
「見よ、軒先に陽が射しておるわ。雪さえ暖こう覚えるわ」
「まったくだな」

「しかし、暇じゃのう…これほど雪深いと旅人も通らぬ」
「かといって油断は禁物ぞ❗」
「真面目よのう」
「真面目なのが普通であろう」
「それはそうだが…」
江戸時代にインターネットがあったとしたら、幕府や藩からの命令はメールで流され、告示はPDFで行われていたかもしれませんね…(?)







