JR東日本・信越本線長野駅は国鉄時代から長く善光寺口の仏閣風の重厚な駅舎が象徴的でしたが、長野冬季五輪の開催と北陸新幹線の高崎~長野間開業を機に新しい「どこにでもある」駅舎に建て替えられました。

 その後、北陸新幹線の長野~金沢延伸開業に向けて駅舎および駅ビルが大きくリニューアルされて現在の駅舎に生まれ変わりました。

 仏閣型駅舎がなくなってしまうことは残念でしたが、老朽化や耐震性などの問題もあるでしょうから仕方ありません。しかし、建て替えられた新しい駅舎には正直言って幻滅していました。
 リニューアル後の現在の姿は山国・信州らしい木を前面に出した駅舎となって少し良くなった気はします。


 リニューアル工事中の駅ビルを背景に2番線で出発時刻を待つ普通列車「妙高3号」直江津行
 普通列車ながら特急型車両を使用して指定席車両も設定(進行方向最後尾1両)されていたため列車名が付けられていました。
 この編成は両端が上越線の特急「とき」で活躍後に上越新幹線開業に伴う「とき」廃止で房総方面の特急に転身、新潟から幕張へと転属、総武本線東京駅地下駅乗り入れ対応改造されたクハ183-1500番台で中間のモハ188・189のユニットを挟んだN101編成。
 両端のクハ183は新潟から幕張、そして最後に長野へと渡り歩いてきた車両で、碓氷峠でのEF63型電気機関車との強調運転には対応できないのですが、長野に来てから中間車両の189系ユニットに施されていた信越本線の特急「あさま」色に合わせて塗装が変更されていましたが、晩年は画像のように中間の189系を含めてオリジナルカラーの国鉄特急色に戻されていました。
 このN101編成のクハ183-1500番台は1000番台として製造されたのですが、新潟から幕張に転属する際に総武本線東京地下駅のATC取り付けなどの改造を受けた車両です。
 最期を長野で迎えた車両ですが、ATCを装備していたため横浜線や根岸線への乗り入れも可能だったため根岸線の磯子駅から発着して横浜線経由で中央本線へ入る特急「はまかいじ」や中央本線・大糸線の臨時夜行快速「ムーンライト信州」をはじめ数々の臨時列車として長野転属後も首都圏にたびたび顔を出していました。


 長野駅の駅名標。
 他の記事でも述べましたが、JR東日本・長野支社管内の主要駅には地元の名所や象徴の写真を使った駅名標が設置されています。長野駅はもちろん善光寺が採用されています。
 難点は両隣の駅名や平仮名、英文字が画像に負けてしまって見にくいことですが、他にJR東日本標準タイプの駅名標もちゃんと設置されていますからアイディアとしては楽しいと思います。


 北信濃の晩秋…そろそろ雪の足音も近づいてきそうなこの時期は意外と好きです。吹く風に枯葉が舞って寂しさも感じられるのですがね…。
 谷村新司さんの「三都物語」の歌詞は遠く離れた関西が舞台なのでしょうが、その中の「風そよげば ひとり胸抱きしめて…」という一節、まったく風土の異なるこの北信濃の晩秋を訪れる一人旅する女性にも当てはまるような気もします。
 私のようなおじさんでは四季を問わずまったく画になりませんが…(^_^;)))

 あちらこちらで本格的な冬へ支度が見られるのは雪国ならではの風物詩でもあります。


 今回の記事は平成26年(2014年)の11月、こちらに用があったのと伯母に会うために東京で仕事を終えてからやってきたのですが、その伯母も翌年の秋を迎えることなく他界してしまいました。



 このときの帰りはN103編成。
 信越本線の特急「あさま」のグレードアップ編成に採用され、のちに長野総合車両所(当時)に所属する189系と489系すべてに施された「あさま」色。
 こちらは両端が485系のサハ481に運転台ブロックを取り付け改造して189系に編入されたクハ188となっています。

 国鉄時代末期、大赤字に喘いでいた国鉄は増収策の一環として料金が安い急行列車を料金が高い特急列車に格上げし、特急列車の運転本数を大きく増やすために特急の短編成化…つまりそれまで12両編成が標準だった編成を9両編成として、編成から外された電動車(モハ)ユニットやグリーン車(サロ)を集めて繋いで新しい編成を増やしたのですが、当然ながら運転台がある制御車(クハ)が足りません。
 とくに183系や189系にはグリーン車以外には中間付随車(サハ)が存在していなかったので、不足する制御車を485系や489系の短編成化で余剰となっていた中間付随車(サハ481・サハ489)に運転台取り付け改造を行って運転本数確保が図られました。
 485系や489系から改造されたクハは183系ではクハ182を名乗り、189系ではクハ188を名乗っていました。
 183.系や189系は485系や489系とは床の高さや側窓の高さなどが異なっていたため、改造車として組み込まれたことは一目瞭然でした。
 ちなみに189系は183系、489系は485系をベースに信越本線・横川~軽井沢間の碓氷峠でのEF63型電気機関車との協調運転装備をするために開発された形式で、それぞれの車体などは共通でしたから碓氷峠を通らなければ混結は可能でしたから、碓氷峠廃止後にはそのような運用も多く見られました。


 
 長野駅にて。冒頭の2枚目の画像と同じ場所での撮影ですが、この部分だけでは改造車とはほぼわかりません。
 しかし、車両全体を見ると側窓の上に方向幕が移設されていたり、前述のように側窓の高さが違うことや後方にある485系時代からの扉はステップ付きとなっているなどオリジナル車とは異なる点が散見されます。

 普通列車ながら特急型車両を使用して指定席車両も設定されていたことから列車名も付けられ、前面にはイラストマークも妙高山を描いた表示されていました。
 当時の信越(長野・新潟)地区のローカル列車の主役は国鉄型の115系1000番台でしたが、新幹線開業による特急列車の廃止で余剰となった一部の車両が特別料金不要の普通列車や快速列車にも使われていたのはよかったと思います。

 特急「あさま」の輸送力増強対策として昭和50年(1975年)にデビュー、当時の国鉄長野運転所に集中配置されて信越本線の顔役的存在だった189系でしたが、長野まで新幹線が開業して特急「あさま」が廃止されて新幹線にその列車名を託したのち、松本や大宮、田町、幕張などに多くの車両が転属、長野に残った車両はこの「妙高」や一時期運転されていた長野~新潟間の特急「みのり」のうち1往復に使われるなどしていました。
 新幹線が金沢まで延伸開業し、信越本線の長野~直江津間も第三セクター化され「妙高」も廃止されるとN101編成・N103編成ともに廃車解体されてしまいました。
 また、近年では首都圏に残っていた豊田車両センターの189系も相次いで引退して故郷・長野に戻って解体されました。
 編成すべての車両がオリジナルの189系で固められていた長野総合車両センターのN102編成が最後まで残っていた編成でしたが、こちらも既に廃車されていますが、まだ解体されずにいます。



 北陸新幹線が金沢まで開業するのはまだ4.ヶ月後でしたが、新幹線「あさま」に先行導入が始まっていたE7系。真新しい車両はまだ屋根ほピカピカでした。

 思い出しました!
 このとき初めてE7系に乗車したのですが、往路はグランクラス券を衝動買いしてしまって…(笑)。
 私のE7系初乗車はグランクラスでした。もちろん「あさま」でしたからアテンダントサービスはありませんでしたが…。


 さて、N101編成とN103編成は「妙高」廃止後に早々と廃車となり解体されてしまいましたが、最後まで長野に残っていた189系のうちN102編成だけが廃車されることなく残っていました。
 こちらは朝の篠ノ井線のライナー列車として塩尻から長野までの片道のみの営業運転で余生を過ごしましたが、前述の通り廃車された現在でも解体されず長野総合車両センターの解体線に留置されたままになっています。


 以下の画像はN102編成の2年半前の画像となります。



 側面には特急「あさま」廃止後には消されていた「ASAMA」のロゴも復活していました。




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 旅行です。
 足元である国内をくまなく旅したいです。