先日、久しぶりに北国街道の武州・加州道中境碑(長野県上水内郡飯綱町小玉=ながのけんかみみのちぐんいいづなまちこだま)を訪れてみました。

 北国街道は江戸時代、中山道の脇街道で江戸と信濃(善光寺)、越後、北国(現在の新潟県を含む北陸地方)を結ぶ主要な街道として栄えました。
 現在この碑が保存されている場所は本来の場所から20mほど離れたところにあたるそうです。
 現代の国道18号線は軽井沢町の追分から中山道と分かれて北国街道に沿う形で通っていますが、場所によっては離れているところもあります。
 旧北国街道は長野市街地の北西の山裾を通って飯綱町の牟礼駅付近を通ってこの道中境碑の先で国道を突っ切るのですが、以前はもう少し国道と交差する付近にあったと記憶しています。

 江戸時代初期、加賀(石川県)百万石の大守・前田家が設置したと伝えられ、北陸道~北国街道~中山道を通って江戸と金沢の間を参勤交代で通る際、中間地にあたるこの地で休息をとって金沢の本領と江戸屋敷それぞれに飛脚を飛ばして旅の安全を知らせたと伝えられています。

 北国街道は前田家のみならず北陸地方などの大名の参勤交代の経路として使われたほか、佐渡で採掘された金を江戸に運ぶのに地形が険しくて整備が進まなかった三国街道(現代の国道17号線の群馬・新潟県境)を避けて利用されていたそうです。

 加賀藩第12代藩主・前田斉広の妻であった鷹司隆子(真龍院)が生涯で初めての長旅となった江戸から金沢へ向かう道中で詠んだと伝えられる歌碑も設置されています。
 幕府の施策により大名の正室は人質として江戸屋敷に留め置かれていたわけですが、夫に先立たれてようやく夫の本領である金沢へ向かうことが許されて長旅をした真龍院をはじめ諸大名の正室の胸のうちはどのようなものだったか…。


 先日アップした記事のコカ・コーラ電車はこの道中境碑のすぐそばでの撮影でした。
 かつて加賀百万石の大名行列が通ったこの路線、ほんの20年ほど前までは特急「白山」が金沢から上野までを往復していました。