非理法権天を掲げた後に~平生回天訓練基地を学ぶ~ | あもん ザ・ワールド

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2016年6月6日記

非理法権天
「非は理に劣位し、理は法に劣位し、法は権に劣位し、権は天に劣位する」

山口県熊毛郡平生町佐賀に阿多田交流館という資料館がある










平尾町がある室津半島には縄文前期から人が住み始め
弥生時代の遺跡が多く見つかっている
古墳時代には神花山、白鳥、阿多田、野稲古墳などが造られ王の権威を語る地であった
室町時代に毛利氏がこの半島を治めたことから領地としても認識され始め
江戸時代には塩業が栄えるなどして歴史を刻み語る地ともなっていた













その後、風光明媚で温和な気候に包まれ平穏な日々送っていたこの地でも
太平洋戦争により深い悲しみの雨が降った地となっていった
ここ平生には水中特別攻撃隊・人間魚雷「回天」の訓練基地がおかれていたのである
よって、この地は軍事機密により歴史を語ることを禁じられた








太平洋戦争勃発翌年の昭和17年、大竹潜水学校柳井分校が建設され始め
その用地内にある田名・阿多田の住民の強制撤去が始まる
開戦当初輝かしい戦果を揚げた太平洋戦争も
昭和17年ミッドウェー戦での挫折、18年のダガルカナル島撤収
山本連合艦隊司令長官の戦死、アッツ島守備隊の玉砕等、戦局が悪化する展開となっていった
こうした戦局打開のために、新兵器、新戦法の研究開発が青年士官から相次いだ
そのひとつが回天作戦である






特攻兵器回天の発祥の地は徳山沖にある大津島であるが
その後、回天の訓練基地が山口県光基地、山口県平生基地、大分県大神基地が造られていった

回天の搭乗員は全て志願によるものだった
搭乗員の出身と戦没者数は以下である
海軍兵学校出身・搭乗員89人・戦没者19人
海軍機関学校出身・搭乗員32人・戦没者12人
学徒出身・搭乗者210人・戦没者26人
一般兵科出身・搭乗者9人・戦没者9人
甲種飛行予科練習生出身・搭乗者935人・戦没者40人
乙種飛行予科練習生出身・搭乗者100人・戦没者0人
















圧倒的に甲種飛行予科練習生出身が多い
予科練とは、海軍飛行予科練習生、即ち、少年航空兵のことである
この数字によっても日本の戦局悪化が良く分かる
回天の搭乗員は海軍伝統の「指揮官先頭」を実践して兵学校出身者が真先に立ち
上の者から、古い者から、出撃していった
しかし、その数に限りが見え、搭乗員も若年化されていったとされている

昭和20年3月平生回天基地が開隊、述べ5000名が入隊した










当時は戦意高揚のため、真珠湾攻撃などの戦争映画が盛んに上映されて
陸軍はドイツやフランスを真似ているからか、何か泥臭さを感じ
海軍はイギリスをモデルにしていて、スマートな印象を個人的に感じていたから
特攻というイメージではなくて、「飛行機に乗れる」という感じで入った若者がいた

しかし、実際には乗る飛行機は無い
彼らは講堂に呼ばれて士官の方から
回天に乗るかどうかの意思表示を求められたそうだ
戦況は悪いとは言わず、苦しいと言う
ガダルカナル島の敗戦は新聞には負けたとは書かずに
軍が移動したとしか書いてなかったという
「特殊な兵器がある。この兵器ができれば日本は戦況をひっくり返すことができるかもしれない。志願しないか。」
乗る飛行機はないが、特殊な兵器があるのでそれに希望しないか?と少年たちに問う
これはあくまで任意だと言われ、紙切れを渡され、それに名前と、希望する者は○印を、希望しない者は×か、何も書くなということだったらしい









特殊兵器とは人間魚雷「回天」なのだという意識は少年兵にはない
だが、少年たちは「嫌です。」とは言えなかった
もし言えば、どこかの戦地へ直ぐに行かされて、結局死ぬことが分かっていたから
だから絶対嫌とは言えなかったのが当時の日本だった














ただ、ひとつの救いとしては平生の基地の雰囲気は本当に穏やかだったらしい
海軍にもこんなに穏やかな基地があるのか?と少年兵は思ったらしい
ビンタはないし、棒を持ってくることもない
「鬼の大津島、地獄の光」と言われていて、平生は「極楽の基地」みたいだったらしい
それは司令や特攻長の人柄からによるという
自分の子供みたいな少年兵が死ぬ事が決まっているのに
何故、苦しめないといけないのか?という考えが多かったのだと言う













平生の人たちは回天の基地があったことを知らなかった
潜水学校の奥にあったから、潜水艦がいたという記憶はあるが
青年兵や少年兵が命を懸けて苦しんでいるとは知らなかったであろう










平生基地からは伊58潜水艦が出撃している
この潜水艦からは6人の特攻隊員が出撃することとなった
6人は出撃の何日か前に司令官の命令で別府温泉に休養で行ったそうだ
6人は出撃の前日に別府温泉から平生に帰ってきた








林義明少尉



彼は別府温泉から帰ってきたら、悟りきったような人になっていた
人はこのような状況になったときに、こんな風になるものかと誰もが感じた
しかし、彼は花の鉢に水をやっていたという
明日、出撃して死ぬというのに・・・
彼を見送る友は言った
「しっかりがんばれ。わしも後から直ぐに行くぞ」




当時、多くの兵士は、表向きには、回天に乗って早く行きたいと言っていた
選抜されて先に行く人を非常に羨むようなことを言っていた
早く行きたいという理由は2つあったと言う
1つは、使命感
我々の家族なり恋人なりそういう人を救いたい
救うためには我々が回天に乗って行くしかないんだという使命感だ
もう1つには、厳しい訓練から早く逃れて
楽になりたいという気持ちもあったのだと思われる








非理法権天という言葉が彼らの頭に押し込まれていた
「無理は道理に劣位し、道理は法式に劣位し、法式は権威に劣位し、権威は天道に劣位する」
非とは道理の通らぬことを指し、理とは人々がおよそ是認する道義的規範を指し、法とは明文化された法令を指し、権とは権力者の威光を指し、天とは全てに超越する「抽象的な天」の意思を指す
純粋無垢な少年兵はこの言葉をどのように胸に閉じ込めたのだろうか










「回天」の搭乗員は累計1375名
戦死及び殉職の戦没搭乗員は106名
このうち9名が平生基地に所属していた兵士だ
平生では3名が訓練中に殉職している
平生から多聞隊の5名が回天で出撃して戦死
1名が敗戦後の8月18日
自分が出撃する筈だった「回天」に馬乗りになり壮絶な自決をとげた
















出撃が決まったある兵士はこんな風にメモをしていた
「体当たりまであと旬日。ひと目、家の者たちに、親類に、お別れしたい。これまでが人情だろう。しかし、よく考えてみよう。果たして、会うだけで心残りが飛ぶだろうか?未練が一層強く残るのではないか。こんな女々しいことで5万トンの敵を轟沈できるか?底からの声を奮い起こせ!男らしくやれ!」
とにかく早く出撃したいなというような気持ちが全てだった
だから「死」という意識が、恐らく無く行けることなら早く行きたいという意識が大きかった
そして、この兵士が出撃する前に終戦となった




橋口大尉

彼は回天の操縦技術に優れ、人望も厚く、搭乗員たちから尊敬されていた指導者だった
橋口大尉は出撃を希望したが、優れた指導者であったことから
搭乗員の育成のために残されたという
彼は血書による嘆願書もしたためていた
そして、昭和20年8月20日に特攻隊長として出撃することに決まっていたが
8月15日に日本は終戦を迎えた




その3日後、橋口大尉は出撃して死んでいった部下達の後を追うように
自らに拳銃を2発撃ち、命を絶ったという

「後れても後れても亦 卿達に誓ひしことばわれ忘れめや」
彼の残した言葉だった





終戦後、特攻隊の解散命令が下され、基地は消滅した
その後はニュージーランド軍の駐留地として管理されるようになった
昭和23年にはこの地に少年刑務所「新光学院」が開院され
平成11年の廃院まで刑務所として役を負っていた
そして平成14年、ようやく少年院跡地の一部が平尾町に払い下げられる
平成16年に平尾町は阿多田交流館を開館させ
人間魚雷「回天」が静かに語られ始めた






















































日本軍が非理法権天を掲げた後
つまり、この地が歴史を語ることを禁じられた時より
62年の歳月が経っていた


















阿多田交流館を出たところで青い鳥を見つけた





青い鳥は草を口に頬張り、天高く登って行った