こんにちは。

同名の記事内容の追加をしていたら、長くなって見にくなってしまったので分けました。

 

姓名判断での草冠の画数、ひいては康煕字典の画数についてです。

新字体派は考える必要のないことですが、旧字派については姓名判断で康煕字典の画数を使うことについて、”存在しなかった文字の画数で数えるのはおかしい”という批判はもっともです。

そこで、旧字体派で康煕字典の画数で数えるべきと主張するのは、”隷書”が成り立つ前にあった”古隷”で数えるとどうなのだろうか、という考察をしてみました。

古字である篆書体があまりに形がかけ離れているという意味で、現代漢字の礎となったのは原型的には隷書体だと思われますが、隷書体のもとになった古隷の主流の八分隷でかかれた”乙瑛碑”では草冠の形は”艸”だったようです。

隷書体のwikiにあるように、隷書の石碑の”乙瑛碑”での””の右側は説文解字で元をたぐれば右側が草冠の””のようなので、この文字の草冠の形の部分が”艸”に近い形になっていることが、古代の隷書の草冠が6画といえる根拠のひとつとなりそうです。ちなみにこの”瑛”の王偏はまだ玉の形になっているように見えます。これは康煕字典の部首の説明と一致することになります。”乙瑛碑”でみると”しんにょう”もまだ”辵”に近い形だったようです。

しかし他の草冠が”艸”の形であるのに、なぜか””の字だけは4画なのですが、”夏承碑”(170年刻)(拓本でのみ現存)では”若”の草冠も”艸”の形です。

 

今のところ発見されている中で最も古い部類の古隷で書かれた”黄帝四経”(馬王堆帛書より、こちらの文献によりますと戦国中期~漢初)では、””の字を含め、小さいためはっきり見えないですが、大きく拡大してみると真ん中付近の”萬物草”の部分の””の字、最上部ほぼ右端の””の字等、草冠の端は微妙に曲がっていて、”艸”の形になっているようにみえます。”乙瑛碑”(152年刻)では元が草冠の形をもつ””で”艸”の形をまだ保っていたこと、破損記録のようなもの(最後の画像)の中に赤文字で本来の草冠由来の草冠の漢字である””の字が”艸”で書かれていること、””の文字が”熹平石経”(175年)による字形標準化後でも”曹全碑”で”艸”で書かれてあることなどから、当初は”艸”に近い形であったことは予想できます。その他にも”孔宙碑”(164年刻)で””の字が”艸”で書かれています。真ん中の一つ左、やや下のほうに””ではないかと疑われる文字も”艸”であります。

また、”乙瑛碑”より前に摩崖につくられた”石門頌(148年刻)”という磨崖があったそうなのですが、文字を見ると””の字が3画の章草体の草冠(右の列の”董”を参照)に酷似した草冠が使用されています。

石門頌”(148年刻)は”漢隷の中の草書”とも呼ばれているそうで、Wikiによりますと、いくつか違う書体の古隷があったということです。

このころにはすでに隷書の速書体である草隷というものがあったようですが、”広武将軍曾孫産碑”の説明があるこちらのサイトでも、”石門頌”も草隷の範疇にあると書かれています。

曹全碑”(185年刻)では熹平石経”(175年)による字体の標準化後でも、もともとの形が草冠でなかったとはいえ””の草冠はまだ”艸”の形になっていますが、現在の隷書体の草冠は””(左側の真ん中下の隷書体ボタンを黒反転で表示されます)でも4画になっていますので、時代とともに変化していったと考えられます。これは隷変と呼ばれているものです。隷変のwikiに以下のようにありますように、形の似たものが簡略化されて部首が統合されて行った帰結段階の変化と考えられます。

 

隷変という移行過程の1つの帰結は、篆文中の複雑な構成要素(例えば、情や恨に見られるように、「心」心-seal.svg/心をその片側に含む字がその構成要素を忄に単純化させた)の単純化の結果として多くの部首が形成されたことである。

また”曹全碑”が作られた時期は字体がある程度標準化していたはずですが、書法字典の隷書体検索結果によれば、この碑で””の字はまだ4画に統一されておらず、(同碑で””が4画草冠になっているにもかかわらず)””は3画草冠になっているようです。

こうしてみていくと、草冠は4画だけでなく3画、6画と3種類の書かれ方があったことが見えてきます。

これは、草冠の形が篆書体の形の”だいたいこのような形”というようなあいまいなイメージであり、かっちりと特に決まった形はなかったことから起こった可能性が高いのではないでしょうか。当時は字典といったものもなく、実際に書かれたものをイメージして覚えるしかなかったという点から考えると、そうなります。

筆記的に書かれたものが3画、大まかに書かれたものが4画、比較的きっちり書かれたものが6画といったところでしょう。

なお””(冠)の篆書体は草冠を逆さに書いたようなイメージで、

竹冠の横線は上曲げるようなのイメージ(こちらの書体検索で、右側ドロップダウンの”行书”を”隶书”に変え、”等”の字を検索後の、”馬王堆帛書(马王堆帛书)”の字体、”管”ではこの字体から(普通にクリックだと日本からは表示できないため直リンさせていただいています))、

草冠の横線は下曲げるようなのイメージ(こちらの書体検索で、右側ドロップダウンの”行书”を”隶书”に変え、”英”の字で検索後の、”馬王堆帛書(马王堆帛书)”の字体、”蒼”ではこの字体から)であったことは想像がつきます。

そう考えるとやはり書かれたイメージは元の篆書の草冠のイメージの曲線が書かれただけで、あとは書き手のイメージで表現したに過ぎないということになります。

字体標準化の際、似通った2つの冠で、ほぼ同じ形で曲がる向きだけが違う横線が、書く機会のほうが多い(竹冠より草冠の文字のほうがかなり多い)草冠が優先して簡略化されたために、竹冠は6画、草冠は横線一本だけの4画になったのは自然の流れかもしれません。

康煕字典派にしてみれば、最古の隷書体の字体が横長なこともあり横線の曲がり具合がわかりにくいとはいえ、”艸”に近い形になっているものがしばしばみられるため、初期の字体ではきっちり書けば”艸”をかくのに6画を要するのが自然、といったところでしょうか。

字”というくらいですから、形的にもかけ離れておらず、前の時代に正体(せいたい)となった古隷書体が起源ということかもしれません。

 

こちらのサイトによりますと、(Public Domainのwiki出典)

隷書は戦国時代の秦の俗字体を基礎にして漸次形成され,戦国後期にはすでに基本的な形が出来上がっていた。

とありますので、”黄帝四経”(こちらの文献によりますと戦国中期~漢初)が書かれたころにはある程度形は出来上がっていたことになります。

儒教中国の書道史のwikiによりますと、いつ儒教が国教になったかは定かではないものの、前漢末になると儒者が多く重臣の地位を占めたということで、

五経博士が設置されたことで、儒家の経書が国家の公認のもとに教授され、儒教が官学化した。同時に儒家官僚の進出も徐々に進み、前漢末になると儒者が多く重臣の地位を占め、丞相も儒者が独占する状態になる。

今文学が官学となり、これにともなって隷書が正体となったのである。

とあり、字体こそまだ隷変の最中ではありましたが、一度は前漢の時代に漢字の正体になっていたようです。

したがって、6画草冠でかかれた”乙瑛碑”(152年刻、公文書と言われています)の年代には漢字の正体になっていたことになります。

公文書としては古くは、”居延漢簡”(紀元前102年~98年)が隷書体で出されています。

”草隷”の定義は奈良教育大学学術リポジトリの文献によると

第二章 章草の特徴 第一節 簡略化について 簡腰の章草は一般的に隷書を速書きしたものだといわれ、章草の中にも隷書に近いもの や、省略化された文字が見られるなど多彩である。

とあり、”居延漢簡”に出ている写真もそれに近いと思われ、草冠は3画になっています。

 

時期的に正字体扱いになっていないですが、”黄帝四経”のような王の墓にあるような文書に上記のような古隷が使われていたというのに、正式な字体として世に残っていないのは、漢字がまだ抽象的なイメージでかかれていたためでしょう。おそらく、古代文字に一番近い近代漢字で書かれた字体です。

居延漢簡のような”草隷”は古隷の速書の書体ということですので、正字体という風には考えにくいですが、竹冠と草冠が速写体の”草隷”、および当時の4画草冠では同じ形になってしまう(先ほどの書法字典の””の隷書体検索結果の居延漢簡字体曹全碑字体)ことからも考えて、”黄帝四経”に書かれた横線が上下に曲がった竹冠、草冠のほうが正字に近いと考えるのが自然だと思われます。

そのころはまだ草冠を含め多くの部首は康煕字典に乗っているような形が多いようで(さんずい、おおざと、てへん等すでに変わってしまっているのもあります)、たしかに康煕字典の部首に、現在の部首を除いた字体を加えた形のものが多くの字で一致、または変形のみで、あるべき画数は一致しているというのはあるのかもしれません。

そうして考えていくと、やはり完全に初期の隷書体を明らかにするような字書が存在しない中、康煕字典が近似的にそうなっている、もしくは逆に康煕字典を論拠にしたらたまたまそうなったのではないかということになります。

かつて公式文書で字体の標準化前、そのような画数の字体で書かれた公文書が存在したということですので、”そのような漢字は存在しなかった”という旧字主流派となっている康煕字典派の否定される最も大きい事由は多少軽減され、論拠も少しは納得のいくものになるかもしれません。

もしそうでないなら、近代日本の漢字の歴史的に関わりが深いため、康煕字典自体の総字画数が漢字の数霊に影響を与えているというくらいしか説明ができませんが、これだけだと信憑性が少し薄い気がします。

最古の字書といえるものは”説文解字”(西暦100年成立)ですが、篆書体の字書ということもあり、画数についての記述はないようで、こちらの文献によりますと、”五音篇海”(1208年に編纂)で初めて画数についての記述が出てきたようです。

 

番外:ちなみにですが、新字体で部首が意味画(康煕字典の部首画数)とかいうオプションもある斬新なサイトがありました。なお新字体の字書で、康煕字典のように草冠を6画として総字画数を数えているものは見つけられませんでした。

旧字体の考え方が、文字の起源を手繰るということですが、部首画数は康煕字典(文字起源)からとってきて、その他の部分の画数は現代字書からとってきているということになりますので、新字体と旧字体の理屈を部分的に組み合わせた流派といったところでしょう。根拠的には乏しいと思われますが。