北朝第五代後円融天皇は室町幕府三代将軍足利義満が権力を深めた時代、南北朝時代の北朝、持明院統の天皇です。

 

なお、識者によれば、南北朝という表現は戦後一般化したもので当時南北朝などと呼ぶ人はいなかったそうです。つまり現在南朝と呼ばれているのは吉野朝であり、北朝は旧来通りなのであらためて北朝などとは呼ばれたりはしなかったということです。


生年は延文三年(1359年)。


御父は後光厳天皇、御母は藤原仲子(崇賢門院)。仲子の姉が母の足利義満とは従兄弟同士で同い年(新暦では一つ違い)。


御名は緒仁(おひと)。


在位期間は応安四年(1371年)~永徳二年(1382年)。

 

応安四年一四歳(数え歳)で親王宣下を受け「緒仁」の名を授かり、立太子されたその二日後に元服、譲位、践祚の儀が行われました。

 

この時代の皇統分裂の原因は、後嵯峨天皇の皇子後深草天皇(持明院統)とその同母弟の亀山天皇(大覚寺統)の治天の君争いに始まります。そのため、持明院統では弟は「中継ぎ」として位置づけられてきました。後伏見天皇の弟の花園天皇、光厳天皇の弟の光明天皇も中継ぎとしてその役割を忠実に全うし統内の結束を守ってきました。光厳上皇、光明上皇、崇光上皇が吉野に拉致された中、異例の即位となった後光厳天皇に対しても、暗黙の了解として、兄の崇光上皇は、皇子である栄仁親王が皇位を継承されると考えていました。拉致された当時は、花園天皇の皇子であった直仁親王が皇太子でしたが、拉致されている間に出家していたため当然ながら、次の皇太子として誰もが栄仁親王を考えていたのです。

 

ところが後光厳天皇は、仲子の姉が足利将軍義詮の側室であった姻戚関係を利用して、仲子所生の皇子に即位の可能性を託したのが緒仁親王でした。つまり、ここで持明院統内であらたな後継争いが生まれたのです。

 

実は、このことが後円融天皇の心理に大きく影響していきます。異例の即位をされた後光厳天皇の皇子として生まれたことや、持明院統の正嫡を差し置いて強引に即位したことで父帝以上に自分の存在意義に悩まされることになったのです。そもそも十四歳まで、元服も諱も親王宣下も賜っていなかったのは崇光上皇側との軋轢があったからでした。しかも幕閣の支援の中での譲位でしたが、幕閣の総意ではなく、幕府内部の権力闘争とも密接に結びついた中での支援であったために、支援者である細川頼之が失脚したらどうなるのか?という不安も抱え込むことになります。

 

そうした中で、即位儀礼は後光厳上皇が崩御しその諒闇が明けるまで待たされることになります。


室町幕府内では正平二十三年/応安元年(1368年)に将軍職に就いた足利義満が年若いため管領細川頼之が後見しており、朝廷では応安七年(1374年)までは後光厳上皇による院政が行われました。その後康暦元年(1379年)に細川頼之が失脚した頃には、将軍としての力を義満が発揮し始めたため、その従兄弟である後円融天皇の後光厳統支持が確立されてゆきます。そして、それまで懸案事項となっていた様々な問題を義満が解決していきます。

 

そうした中で天皇は容赦なく朝儀に介入してくる義満と激しく対立しながら、つねに譲歩を余儀なくされ、落胆する日々を送られることになり、互いにぎくしゃくした関係が続いていきます。

 

義満との関係がうまくいかないことで、後円融天皇は後光厳流の行く末に不安を感じられ急いだのが、幹仁親王への譲位でした。そうすることにより、持明院統内部での両統送立の可能性の排除も狙い、また崇光上皇が経済的に支配する長講堂領の伝領も握ろうとしたのです。

 

永徳二年(1382年)まだ六歳の皇子、幹仁(もとひと)親王に践祚し、譲位(北朝六代後小松天皇)、天皇が幼いため院政が敷かれましたが、義満が全面的に補佐し、南北朝末期までには裁判権・警察権・課税権から京都の支配権に至るまで天皇の政治的権限が義満に握られました。これは、長講堂領を実際に崇光上皇から後円融上皇へ移管させるためには延臣たちの同意が得られなければ難しかったため、彼らを崇光上皇から切り離す必要があって行ったのですが、これが結果的に、後円融上皇の近臣たちも取り込む形になり、上皇を孤立させてしまいます。

 

また、即位の打ち合わせを義満が摂政の二条良基とばかり打ち合わせることに立腹し、義満との間に亀裂が入ってしまいます。後小松天皇の即位大礼は年末に滞りなく行われましたが、対立は解消されないまま年が明け、仙洞(上皇)は元旦の武家御訪(幕府からの金銭支援)を突き返したため正月行事を行えず、義満はもちろん延臣で参院する者がありませんでした。また正月二十九日に御光厳聖忌の御経供養が行われましたが、この時も義満を憚って人々の出仕がありませんでした。

 

この直後、後小松天皇の母であり、三人目の御子を出産されて帰参されたばかりの三条厳子の局に上皇が押し入って剣を抜いてその峰で打ち据え出血が止まらぬほどの重傷を負わせる事件が起きました。


しかも義満が上皇の女官と姦通していたとの流言があり、事態を案じた義満が使者を参内させると、配流されると思った後円融上皇は面会を拒否し禁裏に立てこもって自殺を図り未遂に終わる事案まで発生しました。崇賢門院仲子が宥めて落ち着きを取り戻し使者に対面した後、義満が政治的孤立を解消させて院政を開始したことで事態が収拾されたのは2か月後となりました。

 

戦地で命を絶った弘文天皇と安徳天皇以外に自殺を試みた天皇は他にいません。いかにこの頃の上皇が孤立を深め、悩まれていたかを表している事件といえます。しかし、一方で天皇(上皇)としての権威を貶めてしまった事件でもあり、二条良基の息子である一条経嗣は「聖運の至極なり。記して益なし。口惜しき次第なり。」と皇室権威の失墜を激しく嘆いています。

 

しかし昔も今も、人が不安定な環境で孤立することの心理的不安定さに違いはありません。歴史の事実としてみる時、こうした環境を作らないためにどうすべきであるかという教訓としてみるべき事件といえます。人を孤立させてはいけない、というのは古今東西変わらない普遍のことわりです。

 

この事件から10年後の明徳四年(1393年)崩御。

 

御遺詔により円融天皇の後加号となりました。円融とは円融天皇の勅願寺であったお寺の名前で譲位の後出家され住まわれたことから崩御後追号されました。円融寺は今はありませんが、その跡地には得大寺が創建されその後細川勝元が石庭で有名な龍安寺を創建しています。

 

御陵は深草北陵(ふかくさのきたのみささぎ)、京都市伏見区深草坊町、泉涌寺内にあります。

 

 

 

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在位中、践祚された年には、南朝の懐良親王が拠点としていた大宰府が陥落し奪還、九州全域が南朝方から変わっていきます。また、永和元年(1375年)最初の朝鮮(高麗)通信使が来朝しています。

 

 

参照:「宮中祭祀」展転社
※祭日の日付は上記からです。崩御日は本により違います。
「旧皇族が語る天皇の日本史」PHP新書
「歴代天皇で読む日本の正史」錦正社

「室町・戦国天皇列伝」

 

 

天皇と皇室は特別な存在でそのお立場ゆえに孤立しがちな環境にいらっしゃいます。しかも戦後、宮内庁、つまり天皇と皇室の周りで働く人たちは役人で固められより一層孤立した状態になっているようにみうけられます。そうした中で、天皇と皇室の諸問題が発生しているように考えています。しかし、それでも古来から受けえ継がれてきた祈られることを続けていただいている有難いご存在でもあるのです。ところが、そうした長く続く皇統を良く思わない人達が、色んな事をしかけています。メディアがずっと天皇と皇室を貶め叩き続けているのもそうです。天皇陛下と皇后陛下が、皇太子殿下同妃殿下であらせられた時、内親王殿下ともどもどれだけメディアに色んなことをあげつらわれたかを私はよく覚えています。そして天皇陛下に即位された後は、秋篠宮家にそれが移りました。しかし、移ったようにみせかけて今も天皇陛下や皇后陛下を貶めた記事がありますし、それは上皇陛下や上皇后陛下も同様です。そして、一番の被害は秋篠宮家です。しかも未成年者まで標的にしています。こんなことを日本国民は許していていいのですか?

 

後円融天皇は、皇室権威を失墜させた天皇として今では知られていますが、そうさせたものがなんだったのか?人を孤立させるということがどういうことを引き起こすのか?天皇と皇室がなくなったら、それこそ世界で日本は孤立するだろうことまで考えてほしいものです。いや、そうなるから考え直せということではなく、日本をそして日本国民をこれほど思っていただける有難いご存在など他にない、唯一無二のご存在である、ということを考えるべきではないか、ということです。

 

インテリジェンスと皇室への見識の高い江崎道郎氏はこうおっしゃっています↓

皇室に対してあげつらう人達は「皇室がどうあるか?」ということを言っているけれども、そのあげつらっている人達自身はどうなんでしょう?すべきことを、国民としての責務を果たしているのでしょうか?そもそも「皇室が(人が)どうあるべきか?」ではなく、「我々国民(自分自身)がどうあるか?」が重要ではないのか?と。

 

 

 

 

 

読めば読むほどに深みを増してくるこの言葉。未来志向だったことがうかがい知れますし、人を責め人の気力を奪うのではなく、気力を与える言葉を紡ぎだせないのかというのは、人間心理の本質をついていると思うのです。

 

 

 

 

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