日本の明るい明日のためのお話です。

 

明るい明日のためには経済が不可欠ですが、その経済の語源は、経国済民、または経世済民といわれています。これは中国の古典に登場する言葉で、「世を経(おさ)め、民を済(すく)う」という意味で、本来は政治・経済・行政全般についての言葉でした。ところが、明治の世に多くの翻訳語が出来た時に、この言葉から英語のEconomy(エコノミー)の翻訳語が創られ定着していったのには、江戸時代に経世済民という言葉が盛んに用いられ、経世済民論が流行したことが大きいようです。江戸時代といえば貨幣経済が浸透した時代でもあり、そうした時代の中で、経世済民という言葉に、次第に「生産・消費・売買などの活動が不可欠である」という現在使用されている経済という概念が組み込まれていったのです。明治になって、エコノミーを翻訳する時に、様々な言葉が使われましたがその中からだんだんに「経済」という言葉に定着していったのは、そうした下地があったことが大きいというわけです。

 

そしてその経世済民の見本として、古来から日本で手本とされてきたのが仁徳天皇の民の竈を代表とする善政です。

 

 

大阪市にある高津宮という神社には、こんな絵が奉納されています。

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この高津宮の由来は仁徳天皇の宮にあり、ここが民の竈(かまど)の舞台であったといいます。大阪城ができるときに遷されたものですから元々の場所ではありませんが、大阪城のところにあった宮で、実際そこには難波宮跡があります。

高津宮で知ったこと

失ったものは二度と戻らない…高津宮はどこに?

お城に住んでいます

 

 

 

「民のかまど」とは、仁徳天皇四年二月六日、天皇が民の竈から煙が上がっていないのをご覧になり、民の窮乏を察し年貢の徴収を三年間禁止させる詔、「百姓(おおみたから)の窮乏を察し群臣に下し給える詔」を渙発されたことをいいます。民の竈の話にはこの詔についてまで語られることがありませんが詔が発せられて免税が始まったのです。

 

 

本日は旧暦では2月6日ということで、民の竈の詔を伝えるのに相応しい日ではないかと思います。もちろん暦は何度も改暦されていますから、当時の2月6日とは時期がずれているかもしれません。しかし、民のかまどがこの時期であったということを知るのは、例えば夏であったということよりもその窮乏さの加減が分かりやすいのではないかと思います。

 

 

歴史を繰り返し伝えるという事は、忘れない為という事が第一にありますが、繰り返し伝えることにより、以前は分からなかったことや理解できなかったことが分かるようになったり見えてくるという効果があるからだとも思います。私はこの日付を意識した時、その窮乏の加減や切実さがより一層強く感じられました。もしこの時が、夏であったなら仁徳天皇はかまどの煙がなくても、そんなものと思ったかもしれません。夏であれば時期的にも生で食べられるものも多いと思われるからです。しかし、冬は保存食ばかりで生で食べられるものは少ない時期だったでしょう。またかまどで暖をとるということもあったでしょう。そのような時期に煙が少なかったのです。当時の人々はどのように飢えや寒さをしのいでいたのか?と時を隔てた現代でも、季節を意識することで、仁徳天皇のご心痛が伝わってくるような気がするのです。

 

 

この3年間の免税の間、宮の屋根の葺き替えもされず宮殿はボロボロになりましたが、民の竈(かまど)のその後は課税されて終わりかというとそうではありません。3年後もまだ課税を開始せず結局6年間免税されたのです。ですからその後、民はすすんで昼夜を問わず宮殿の材を運び宮を完成(再建か)させたといいます。

民の竈(かまど)が物語る我国の姿

 

 

ちょうどそのお話をされてらっしゃる竹田恒泰氏↓

 

 

仁徳天皇は大土木事業を大々的に行ったことがその業績として知られていますが、その土木事業を行う下地には、この民を富ませたことも大きいのだといいます。確かに窮乏している状態で、大土木事業まで行うのは無理があります。そして民を富ませるとは経世済民そのものです。現在。古代の大阪と現在の大阪の地形の違いはあらゆるところで目にすることが出来ますので、検索等してみてください。大阪開発の始まりが仁徳天皇の頃であったこと、そしてその証が仁徳天皇陵を初めとする大規模古墳であることは間違いのないことでしょう。

 

 

そしてこの大土木事業を行ったことが、仁徳天皇陵という世界一の陵墓にも繋がっていきます。なぜなら沢山ある巨大な陵墓を比較すると、その土木工事の進歩までうかがい知ることができるからです。例えばその形だけを見れば、素人でもその技術の向上がわかります。そうした工事を繰り返すことで土木技術が進歩し、田畑が整備され民はより一層富んでいきました。だからこそ、そう励んだ天皇の陵墓が大きくなるのも不思議はありません。しかも、陵墓には土木工事で出た土の処理という一面もありました。このような大きな陵墓を造ったというのは民を使役したのではないかというような話が出た時期もあったようですが、この陵墓の造り方からそのように使役した造りではなかったという説も出てきました。宮殿も喜んで造られたといいますし、土木工事で川の氾濫も抑え、田畑が富んでいったわけですから人々、おおみたからは、宮を造るように喜んで陵墓も造ったというほうが筋が通っています。

世界一大きなお墓ができたわけ

公共事業の先駆け

 

 

 

土木事業を行われた仁徳天皇について書かれている本はいくつもありますが、この本はとても分かりやすい本の一つ。大土木工事の目的の一つには水田の整備もありました。

 

天孫降臨の際の神勅に、「斎庭(ゆにわ)稲穂の神勅」があります。これは、高天原の稲穂をいただき、地上でも稲穂を育て民を養いなさい、というものです。稲を育てるためにも水田の整備は欠かせないものでした。

 

仁徳天皇が行われたとことは、この「斎庭稲穂の神勅」に従ったものであることが分かると同時に、我が国の歴史に稲穂、つまり米が欠かせないこともわかるかと思います。

 

 

仁徳天皇が聖の帝として歴代の天皇の範とされてきたのは、このような仁政を行ったことからであり、その漢風諡号もここから来ています。御歴代の天皇が仁徳天皇を模範とされてきたことは、日本の歴史をみると民が窮乏した時には何度も免税や減税が繰り返されていることからも伺いしれますし、平安時代には仁徳天皇が歌ったものとして(仁徳天皇の気持ちになって)和歌まで詠まれました。

 

高き屋に登りて見れば煙立つ.

民の竈(かまど)はにぎはひに けり

 

 

つまり、御歴代の天皇だけでなく貴族たちも仁徳天皇について学ばれていたということがこの和歌からわかるのです。

 

 

そして経世済民という言葉が盛んに使われた江戸時代に人々の頭に浮かんだのは民の竈だったのだと思うのです。日本で経済という言葉を使う時、それは英語のエコノミーではなく経世済民であるということはとても重要なことではないかと思います。

 

 

聖の帝である仁徳天皇を見本としてきた皇室では、次第に皇子の名前には通字として「」の字が使われるようになりました。仁は不仁以外、悪い熟語のない素晴らしい言葉であり、それこそ天皇や皇室が理想としてきたものを体現する文字です。

 

 

御幼少の頃から、やはり仁徳天皇を理想とされた昭和天皇はその孫の皇子が生まれた時、仁徳天皇の諡号から名前を贈られています。現在の皇太子殿下であり、次期天皇となられます。

すめらぎのお話・・・仁が表すもの

 

 

もしかしたら、昭和天皇は終戦後の日本の変化から、名前で聖の帝の力を呼び寄せようとしたのかもしれません。

 

 

なんといってもそこに昭和天皇の想いが深く感じられるのは、昭和天皇が御幼少の頃から仁徳天皇の民の竈について深く考えていらっしゃったことを知るエピソードがあるからです。それは民の竈についての授業で先生がなぜ民は窮乏したのか?と質問をされた時、ご学友の誰もがお答えにならない中、幼い昭和天皇が(仁徳天皇の父や祖母の時代)長く続く戦のために民が疲弊したからだとお答えになったというのです。民の竈という物語にはその後の物語があるように、その前の物語もあるのです。

 

そして戦後昭和天皇は、日本が復興するには300年かかるとおっしゃっているのです。そしてその後ご未来の天皇としてご誕生された皇孫に仁徳天皇の名前を託されたということには深い意味があるのだと思わざるをえません。

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私はいつの頃からか、この民の竈の物語は聖の帝の物語だけでなく、古来からの日本人の民度も物語るお話だと考えるようになりました。

民の竈(かまど)が物語る我国の姿

 

 

見本とする多くの懸命な先人達がいる我が国はとても幸せだと思います。見本があれば見倣うことが出来るからです。

 

そして現在の日本の姿をみると、日本中が経世済民についてしっかり考えるべきではないかと思うのです。多くの人がこうしたことを知るだけでも、意識や思考に影響を与え変わってくると思いますが、まずは知らなければ始まりません。

 

なお民の竈の話から、無税の話だと勘違いしている人がいるようなのですが、その後の大土木工事のを知れば天皇と民が一丸となって新しいことを始めるのに無税であったわけがないと理解できるかと思います。そもそも無税で成り立つ国家などないことは誰でもわかることだと思います。(当時、労働も税の一つとしてありました。)

 

 

一方で、この民のかまどをみならい、御歴代の天皇も武家も災害や基金の度に免税や減税を行ってきた国が我国であることを、現代の政治家や財務省などの役人は知っておいた方がいいでしょう。

 

 

それにしても古代の大土木工事を始めた当時、そのような前例がない時代でしたからそれは大冒険だったと思います。そのような冒険に、天皇と民が信頼しあって船出したことを知ると現在の私達も頑張ろう!と思いませんか?

 

 

民のかまどと仁徳天皇について話すとき、私達は日本の未来も言祝いでいるのだと最近は考えるようになりました。日本の未来とは、そこに生きる私達日本人の未来のことでもあります。

 

 

何回でも言祝ぎましょう(^O^)/

 

 

大阪市の歌には民のかまどが歌われています。

 

 

 

 

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写真は2015年7月の高津宮の朝陽です。