第十九代允恭(いんぎょう)天皇は、古代の天皇です。


御名は男淺津間若子宿禰/雄朝津間稚宿禰(をあさづまわくごのすくね) 。


御父は仁徳天皇、御母は磐之媛命。また、履中天皇と反正天皇は同母の兄。

 


第十八代反正天皇は皇嗣を定めないまま崩御されたので、群臣達が協議し天皇の御璽を奉ったのが男淺津間若子宿禰命です。しかし、大人になってから病気になりよく歩くこともできなくなっていたため辞退されました。群臣達は、再度頼みますが承知されなかったため、妃の忍坂大中姫命が大手水を持ち懇願し、寒い時期で腕が凍るほどであるのを見て驚き、もう断れないと御璽を奉り即位されたといいます。允恭とは「まことに、つつしむ」という意味で、こうした逸話から漢風諡号が出来た時に諡となったのかもしれません。

 


なお皇位継承の際の御璽について記録されたのは允恭天皇からとなっています。

 

妃の忍坂大中姫命は皇后に立てられますが、忍坂大中姫命の父は稚野毛二派皇子(わかのけふたまたのみこ:応神天皇の皇子)、母は弟日売真若比売命(おとひめまわかひめのみこと:日本武尊の曾孫)です。

 

 

宮は遠飛鳥宮で飛鳥の地に初めて宮を設けられた天皇です。


即位されて三年目、新羅に良い医者を求め呼び寄せ、その治療で病が治り大変喜ばれました。医者には厚くお礼をして帰されています。

 

 

新羅や高句麗等、日本書記には書かれており、今に変わらぬ国際関係を読み取ることが出来る時代でもあります。

 


氏姓の乱れや不正を正し、また「宋書」に記された倭国王済といわれ、外交にも力を注いでいます。

 

 

允恭天皇五年七月十四日、大和国で大地震があったと日本書記に記されており、記録に残る地震の初めです。

 


在位四十二年にて崩御。

 



御陵は惠我長野北陵、大阪府藤井寺市国府にあります。

 

 

125代続く天皇ですから御歴代の天皇は様々です。病弱な天皇もいらっしゃいますが、そのため脚が不自由になられた天皇もいらっしゃったのです。またこの二代後に即位される允恭天皇の孫の清寧天皇は白髪皇子と言われ生来白髪だったといいます。つまり白子だったのかもしれませんが、その父の雄略天皇はそこに霊異をみて皇太子にしたといいます。世界の国々と比較すれば、少しでも弱い所があればなり変わってしまうところもありますが、そういうことのないまま古代から継承されてきたのが我が国の皇室です。


参照:「宮中祭祀」
「古事記」
「全現代語訳日本書紀」
「歴代天皇事典」
「天皇のすべて」

「歴代天皇で読む日本の正史」