これまた個人的な感想ですので他意はありません。

 

広い心で読んでいただければ幸いです。

 

■ウィル・スミス平手打ち事件の波紋

世間的にも結構な話題になっていますね、この事件。で、ネットで擁護派や批判派の色々な記事を目にしましたが、ウィル・スミスだけを批判する意見には基本的に私は全く賛同できませんでした。

全ての記事に意見するのも面倒なのでどうしようか・・・と思っていたところ、『ロケットニュース24』というニュース・サイト(?)でウィル・スミスを批判する的な記事を目にしてしまいした。

 


記事の内容は「アメリカ在住日本人に事件の事を聞く」というもので、対象者が具体的なのが良いですね。

日本では私のようにウィル・スミスを擁護する声の方が多いそうで、対してアメリカでは批判と擁護が五分五分といったところのようです。これが個人的にはかなり意外でした。ウィル・スミスだけを批判している人たちは、黒人コメディアンの病気を笑うジョークを問題とは思っていない訳ですから。

記事を読んでいると私の価値観とは全く真逆・・・というか理解できない事ばかりで、理屈にもなっていない理屈を聞かされている感じ(?)がして、ある意味とても新鮮でした。さすがアメリカ社会には差別を許す風潮が色濃く残っているんだなぁ・・・と改めて思った次第です。

という事で、少しばかり個人的な意見を書いてみようと思います。

■ウィル・スミスはカッコよくない

多分、他のウィル・スミス擁護派の方と私で一番違っている箇所だと思いますが、平手打ちしたウィル・スミスを私はカッコ良いとは全く思っていません。前回の記事に書いた通りで「火中の栗を取りに行かざる得なかった」事に同情している感じです。

平手打ちした事は罪に問われても仕方ないですし、民事で裁判になっても仕方のない事だと思っています。そこは粛々と進めていけばいいです。実際には他に良い方法が何かあったのかも知れませんが、でも、それでも「あの時」はあのような手段に出るしかなかった彼の思いを私は最大限に尊重したい。

だからこそ私はウィル・スミスを擁護したいです。自らが無様な姿をさらけ出すことになったとしても行動せざる得なかった彼の行動を。彼の行動はウィルの奥さんの為でもあったと思いますが、それ以上に、世界中で病気で苦しんでいる人たちの心の支えになったと思いますから。

特に脱毛症という現代医学でも難病とされている病気で苦しめられている患者たちにとっては、あのまま何事もなく病気がバカにされ笑われただけで終わってしまう事は耐え難い屈辱だったでしょう。良いとか悪いとかではないのです。ウィルの平手打ちは世界中の脱毛症患者の気持ちを、少しだけでも軽くしてくれたに違いありません。

黒人コメディアンが脱毛症という病気を笑った事自体はウィルの奥さんに向けての暴言だったと思います。でも、アカデミー賞授賞式という公の場所で、且つ、全世界に中継もされていたという事情を踏まえれば、あの暴言は世界中の脱毛症患者に向けて行われたと錯覚されてもおかしくはありません。

カッコいい!なんて感覚は全く理解できません。ウィル・スミスは「火中の栗を取りに行かざる得なかった」だけなのです。

■黒人コメディアンがウィルを訴えない理由

そういえば昼間の情報番組で、平手打ちされたコメディアンがウィル・スミスを訴えないのが凄い!的な話をしていました。

まるでヒーローみたいな扱いで、何だかよく分からないですが、コメンテーターや司会の方は黒人コメディアンをベタ褒めしていました。

これ、見方が浅はかではないでしょうか?。私の考えは全く違います。

私が思うに、あれは訴えたくても訴えられないのだと思います。訴えたら裁判であのジョ-クの経緯について一から説明しないといけないし、ウィルの奥さんの脱毛症を知っていたのか?、等等が全て世間に晒されることになります。自分の心の中に悪意があったのだとすれば、今のまま宙ぶらりんでスルーしておく方が黒人コメディアンにとっては一番良いはずです。

しかも、訴えない事を美談にしちゃう人達が世間には沢山いる訳で(笑)、そりゃ訴える訳ないじゃん!と私は単純に思いましたけども。これ、そんなに難しい深読みでもないと思うのですが・・・。

深読みって結構大事です。当たっているかハズれているかは別にしても、頭のトレーニングになりますよ(汗)。

■黒人コメディアン=「弱者」、ウィル=「強者」という間違った見方

これは次の章にも関わる話ですが、あるネット・ニュースで以下のような記載がありました。

黒人コメディアンはセレブの、つまり「強者」のウィル・スミス夫妻に対してブラック・ジョークを言ったのだから、「強者」が「弱者」を侮辱したという構図ではない。だからコメディアンの行為は正当化される・・・ 的な内容でした。

これが大きな間違いなんですね。

今回の事件は、脱毛症ではない黒人コメディアンがウィルの奥さんの脱毛症を笑いにした事が発端です。つまり、脱毛症で悩んでいない健常者のコメディアンが脱毛症患者のウィルの奥さんを笑った。という構図なのです。

これは、論点でもある脱毛症を基準に考えれば、脱毛症ではない黒人コメディアンは「強者」という立場に置かれる存在です。もちろん、脱毛症で悩んでいるウィルの奥さんは「弱者」となります。

この関係性に頭が付いていかなければ絶対に正しい見方は出来ません。一番大事なのが何を論点としているか?ですから、それがそのまま「強者」と「弱者」の力関係となります。コメディアンが脱毛症を笑っている時点で、脱毛症で悩んでいるウィルの奥さんの立場は「弱者」そのものだという事です。

コメディアンは自分が脱毛症でないという「強者」の位置にいたからこそ、ウィルの奥さんの脱毛症を見下し笑う事ができた。笑うことが出来た時点で下に見ている証拠なんです。

これ凄くシンプルな読みだと思いませんか?。

■病気を笑う事に「一般人」と「有名人」の差はない

衝撃を受けてしまった内容があります。記事の中での「有名税」の件です。記事では、有名人だから病気を笑うジョークが許さるという理屈でウィル・スミス批判を論じていました。

アメリカ在住日本人の方も「一般人には許されないジョーク」だと言っているので、内容的には決してジョークで済まされない「イジリ」だったという事は理解されているようです。しかし、有名人だったら許されるそうで、その論拠となるのが「有名税」という話でした。

???

私にはこの「有名税」という理屈が全く理解できません。

理屈としても感情としてもあまりにも曖昧過ぎて、何を論の根本として伝えているのかが全く分からないのです。アメリカ在住日本人の方はウィル・スミス夫妻は誰が観てもセレブなので問答無用に「有名税」が適用されると考えているようですが、私からすればそんな曖昧な区分けでこれ程ナイーブな問題の対象者を決めてしまって良いのだろうか?・・・と普通に疑問を感じます。

では、その「有名税」が対象となる人物を決める境界線はどこにあるのでしょうか?。

例えば年収いくらからが「有名税」の対象で、いくらまでは対象外なのか?、とか。
まさかTVに出ている人は全て「有名税」の対象になるのか?、とか等々。


ここをハッキリさせないと、病気を笑う発言をした時に果たして「有名税」適用事案だからセーフ!とか、もしくは適用外だからアウト!だとか普通の人には判断が付きません。ウィル・スミス夫妻はパーフェクトなセレブでしょ!とアメリカ在住日本人の方は言われていますが、それすらもアナタの主観ですよね?、と言うしかないです。

誰かが違うと言えば説得する術がないのですから、つまりは「有名税」論は全ての人に対して説得力を持っている訳だはないということです。たまたまウィルだからその決めつけが容易だっただけで、じゃ他の人の場合は?・・・という事に当然なってきます。

ウィル・スミス以外の人の場合、ジャッジそのものが機能しない可能性だってあります。そんな曖昧な基準で叩く人と叩かれない人の区分けを決める事なんてできる訳がありません。というのが私の素直な感想です。

「有名税」論の持つ曖昧さは、全ての差別に対する根源的な考えにも近い感じがします。聞いていてとても嫌な気分です。

■「有名税」論に関する素朴な疑問

批判の対象者を「有名税」論によって決定する場合ですね、二つの基準が必要だと考えます。

一つが、上で書いたとおり対象者が「有名税」対象者であるかどうか?、の基準。
もう一つが、「有名税」対象者なら許される「イジリ」の範囲はどこまでなのか?、という基準。


今回は「脱毛症」を笑いにしたわけですから、このアメリカ在住日本人の方の理屈で言えば「脱毛症」を笑うことは「有名税」対象者であればオッケーってことなのだと思います。でも、そこから色々な疑問が頭に浮かんできます。

肌が黒い事を笑った場合はどうなのか?。
子供の埋めない体の女性を笑う事はどうなのか?。
レイプされた経験のある女性を笑う事もアリなのか?。 
・・・等々

「有名税」論の考え方で言えば、「有名税」対象者であれば(どんな?)ブラック・ジョークでも許されるという事なので、上記3つのような最低・最悪・悪趣味な内容でも問題なくブラック・ジョークとして受け入れられる、ということなのでしょうか?。ここが良く分からないです。

結局のところ「有名税」論は適用する対象者に対して「イジル」内容のレベルまでを厳密に決める必要がある、という事になりませんか?。それとも、本当に何でもアリなんでしょうか?。



客観的に線引きできる境界線が無いと、「有名税」対象者だと思ってイジったのに「有名税」対象者ではなかった!とか、「有名税」対象者だからいじったのに「イジリ」の内容が度を越え過ぎてた!とか、後から何か問題が起きてもおかしくない気がします。

全てが自分の頭の中で決定できる事項ではないのです。人を「イジル」事は他者を無理やりに巻き込むもので、場所がオープンな場であればその場にいる人以外にも強制的に見せ付けてしまうものです。TV等で中継されていればその数は無限大に増えていきます。

一人の頭の中で考える「有名税」対象者という理屈は、他者には全く通用しない可能性があるということ。

もちろん賛同する人もいるでしょうが、境界が曖昧なのだから賛同しない人がいたって不思議ではなく、その賛同しなかった人にとっては「有名税」対象者ではない訳ですから今度は「イジル」事そのものが問題となります。イジってはいけない人をイジったということです。

「有名税」を論として主張したいのであれば、まずは曖昧さを排除しなければいけません。でもそんな事不可能でしょ?。結論から言えば。

この記事を読む限りアメリカ在住日本人の方は、その一番大事な理屈を理解されていないように感じます。とても残念です。

■アメリカ文化の押し付けがヒドすぎる

この記事の中では他にも特徴的な内容があります。それが「アメリカにはスタンダップコメディーがある」という件です。アメリカにはスタンダップコメディーがあるから、そのセオリーに沿っているのでオッケーだという理屈です。

いや、それ日本人には全く関係ないです。

そもそもアカデミー授賞式でスタンダップコメディーをする意味がわかりません。人の病気を笑う事に一分の理もあるとは思えませんから。スタンダップコメディーを見に行っている人であればその理屈も通用するかも知れませんが、映画に興味があって単純に映画の祭典を見ているだけの人にスタンダップコメディーの理屈で正当性を述べられても理解に苦しむだけです。

スタンダップコメディーのセオリーに沿っているという主張をされるのなら、スタンダップコメディーだけの狭い世界でやってほしいです。何故、アカデミー賞の授賞式で無理やりスタンダップコメディーを見せられて、スタンダップコメディーの価値観を押し付けられないといけないのでしょうか?。そこが全く理解できません。

これは異文化の理解ではなく、只の価値観の押しつけです。少なくとも私はそう感じます。

今回の「イジリ」がスタンダップコメディーとして成立しているのだとすれば、スタンダップコメディーは公の場で、もしくは世界へ発信されるような場所では行ってはいけないモノだったという事です。

人の病気を笑うなんて悪趣味なものには蓋をして、アメリカから世界へ発信しないで頂きたいです。

■「言葉の暴力」VS「肉体への暴力」

「有名税」対象者だから「言葉の暴力」にあっても問題ないというアメリカ文化の価値観。

基本的にウィル・スミスだけを批判している人たちは「言葉の暴力」を軽視しすぎているように感じます。「言葉の暴力」と「肉体への暴力」はどちらが上、というようにダメージの大小が決まっているものではありません。場合によってダメージの大きさは変わってくるものです。

もし、今回ウィル・スミスが黒人コメディアンをナイフで刺していたら、明らかに「肉体への暴力」>「言葉の暴力」だったと言えます。ですが、今回の事件では平手一発の暴力ですから、どう考えても「言葉の暴力」>「肉体への暴力」としか思えません。ダメージの大きさ的には絶対的に「言葉の暴力」の方が大きかった。

世界中に放送されているんですよ?。その会場で苦しんでいる脱毛症を笑われることが、どれ程残酷な事なのかわかりますか?。

前回の記事にも書きましたが、「暴力が絶対にいけない」というのであれば「言葉の暴力」だっていけないはずです、それを「有名税」とか「スタンダップコメディー」とかで誤魔化してほしくないです。

 

そんな免罪符が通用するのはアメリカ国内だけで、私たちのような他の国の住人にはもっと普遍的な価値観で物事を判断したいです。

■許される暴力とは?

繰り返しになると思いますが、許される暴力なんてありません。

ウィル・スミスもそうですし、病気を笑った黒人コメディアンもそうです。彼らに違いはありません。許される暴力なんてないんです。私はウィル・スミスにも罪を償ってほしいと思っているし、それ以上に黒人コメディアンにも相当な罰を受けてほしいと願っています。

平手一発のビンタも悪い。でも、アカデミー授賞式で病気を笑った黒人コメディアンはもっと悪い。その公平な罪の意識を私は社会で共有してほしい思うのです。

今の状況はウィルだけが罰を受けているように思えます。これは明らかにオカシイです。だから私はウィル・スミスを擁護しているのです。

許される暴力はありません。でも、擁護できる暴力はあるのです。

■価値観をアップデートすべきはアメリカ

公の場で病気を笑う行為は基本的に差別です。絶対に認められることではありません。

仮に「スタンダップコメディー」であろうが「有名税」対象者であろうが、いけないものはいけないのです。

そもそも病気自体が世界中に存在している訳で、その病気で苦しんでいる人は世界中に沢山います。黒人コメディアンがジョークのつもりで病気を笑いものにした瞬間に、その笑われた対象者は全世界の患者さんに広がっていきます。黒人コメディアンはウィルの奥さんを笑ったつもりでも、結果的に世界中の同じ病気で苦しんでいる患者たちを笑った事になるのです。

本当に最悪だと思いますが、黒人コメディアンだけでなく会場にいた全員が笑っていたという事実は、アメリカ社会の人権意識が如何に希薄なのかが浮き彫りになった歴史的瞬間でした。この会場を見ていた、世界中の病気の患者さんはどう思ったでしょうか?。

もはやウィルの奥さんに対して行った差別行為では済まなくなりました。黒人コメディアンは世界中の病気に苦しむ患者に対して差別行為を行った、に等しいのですから。差別行為を差別行為だと認識できない社会なのであればアップデートするべきです。人権意識が乏しいのであれば少しでも上げる努力が必要です。

差別が「有名税」やら「スタンダップコメディー」という的外れな論調で擁護されるのなら尚更です。アメリカこそが価値観のアップデートが必要な社会なのだと個人的には強く思いました。



今回の事件の報道を受けて、日本では反差別意識が当たり前にある程度は機能している社会だったという事が認識できて良かったです。

対してアメリカ社会ってヤバくないですか?。結構、まずいレベルに陥っている気がして正直怖くなりました。

アメリカ社会が過剰なポリ・コレに走る理由も理解できました。本質からズレたところで議論していて、且つ、線引きが曖昧だから厳しくならざる得ない訳ですね。だから誰も止められない、んです。

個人的には凄く納得できました。アメリカ社会ってマジで結構ヤヴァイですよ。

やっぱりイデオロギーに染まるとロクな事ないという事ですねぇ。

(終わり)