今はもう廃れてしまった、男の子の半ズボンの話をしたい。
昭和時代、男の子のスタンダードな服装は半ズボンだった。

今のクォーターパンツという分類が近いのだろうか、丈は

2~3分、太腿の半ばくらいまでを覆うショートパンツだ。
振り返ってみると、わりと多く脚を出している服装だった。

 

体操服でみると、男子は短パン、女子はブルマー、という
時代が長かったが、そのうち、女子のブルマーが嫌われて

短パンに替わり、さらにハーフパンツへと移行していった。

そして男子が短パンからハーフパンツになるのと並行して

男の子の半ズボンも次第に廃れていった。服装の主流は、

ハーフパンツか、あるいは低学年児童でも長ズボンになる。

 

服装のセンスは時代と共に変遷する。女性だけではなくて

男性の服装だって、移り変わっている。一番変化の少ない

男性ビジネス服だって目立たない変化は多くあるのだから、

子供服も、親の感覚が違ってくれば変化するのも当然だ。

 

ウィキペディアによれば、半ズボン全盛は19501990年。

その年代の前半に少年だった私などは、半ズボンで育って

いるのでそれを懐かしく思い出す。太腿を露出していた服。

なぜか足に白い粉を拭くようになる寒い冬の日、その中で、

男の子たちは半ズボン姿で公園などを駆け回っていたのだ。

 

その姿を寒そうだと感じていた私の母親は冬に長ズボンを

着せようとしていたのだが、私は長ズボンが大嫌いだった。

そのいきさつは、以前のブログで書いているので省略する。

結局、私が生足半ズボンだったのは小学校1~4年までで、

4年の冬からはタイツ男子にさせられた。半ズボンの下に

タイツを穿いて秋冬を過ごしていたのです。幸か不幸か(;;

 

少年タイツは、半ズボンとセットだ。ズボンの丈が伸びて
ハーフサイズになってしまうと、タイツはハイソックスに

その地位を譲らざるを得なかった。「ショタ」スタイルって

タイツを穿かないハイソックス少年のイメージですものね。

 

 

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ひとつの記憶を脳内の沼の中から引き出してくる行為では、

『記憶』を取り出す度に、その解釈が微妙に変わってきて

しまうことがある。そもそも、完全なる記憶を引き出して

くることができるはずもないから、朧気で曖昧で、しかも

解釈の余地が多い内容でしか記憶を引き出してこられない。

 

例えば、肌色タイツの記憶で最初に引き出してきたのは、

恥ずかしさを伴ったものだった。肌色タイツを穿くことを

自分は恥ずかしく思っていたのだと解釈して、そう書いた。

しかし、私は、その恥ずかしさを好んでいたことを徐々に

強く意識してくるようになる。恥ずかしさのそのすぐ隣に

紙一重の距離で、美味しさがある。それは表裏一体なのだ。

 

肌色タイツは気恥ずかしかった。でもだから、好きだった。

その矛盾が自分の嗜好を形づくる大きな要素になっている。

セーターに合わせて肌色タイツを穿くのが好きだったのを

思い出したのは、自分の精神理解上、重要なことの一つだ。

 

一つを思い出すと他の情報も呼び覚まされる。母の性質や

祖母の服飾趣味など、当時は意識していなかったけれども

長い年月の中で、ああ、そういうことだったのかと合点が

いくことも多く発見できてくる。祖母、母、叔母など母の

実家の関係性も、別の方面から理解できるようになるのだ。

 

 

少年時代に私が恵まれていたことの根本は、両親が家庭を

しっかり営んでくれたていたことで、生活や精神の安定が

あったこと。祖母や叔母など、外部スポンサー的な存在が

いてくれたことで、経済的な面で何も不満がなかったこと。

などなど外部要因があるのだけれども、自分自身も健康で

元気な少年でいられたことも大きいだろうと思っている。

 

今、思い浮かぶのは、川沿いの遊歩道。グラウンドの横を

犬と一緒に駆けて行く自分の姿だ。紺色のタイツを穿いて

風を切るように元気に走った。時空を超えて彼に会ったら、

これから困難に遭っても頑張れよ、と声をかけてあげたい。

 

 

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小学生時代、秋冬は毎日のようにタイツを穿いて過ごして

いたことを、羨ましい、とコメントで言われたことがある。
正直言って、どこが羨ましいのかよく理解できなかった。

自分にとっての日常風景で、特別な意味などなかったから。

 

でもしかし、あれから随分いろいろなことを記憶から引き

出して、少しコメントをくれた人の気持がわかるようには

なってきた。確かに、少年時代の私は恵まれていたのかも?

 

例えば学芸会。今から考えると、昔の学芸会はずいぶんと

学校の自由があったというか、男子にもタイツを穿かせた

衣装で演技をさせるなんて、今ではとてもできないだろう。

でも、その先生方の無茶ぶりのお陰で、スポットライトを

浴びて、日常とは違った格好をして、体育館の観客の前で

演技して拍手をもらうという経験ができたのだし、羞恥と

興奮、緊張と弛緩という精神的な波動を感じながらそれを

味わうことができたというのは、何にも代えがたい財産だ。

 

昨日のブログで、上はセーターで下はタイツだけの格好を

鏡に写した経験を書いたけれども、そういうことだって、

一連の学芸会経験の中から派生したものには違いないのだ。

ただ、私の場合、秋冬に防寒着としてタイツを穿かせられ、
最初にあった非日常感が失われて、タイツは普通の靴下と

同じ分類の物になってしまったことが、残念ではあった。

 

 

この一連のブログの初期に書いたとおり、昔の服装のこと

など記憶の底に埋もれさせてしまった私は、小学生時代に

半ズボンの下にタイツを穿いて過ごしていたことすらも、

長い間、ほとんど思い出すことがなかった。脳内を探って

新鮮に感じる記憶が次から次へと掘り出されると、人間は
記憶を再生させることができるのだなぁと逆に驚かされた。

まぁ、忙しい毎日を生きている人は、そんな昔のことなど
思い出したところであまり益にはならないから、やらない

だろうけれども、暇な人はやってみたら面白いと思います。

忘れていた事象が、鮮やかに蘇ることだってあるのです。

 

 

 

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タイツ系のネタは、少年時代の古い記憶をほじくり返して

書いているので、同じ記憶から派生したものが多くなって

しまうのだけれど、心に残っていることを書き続けたい。

小学校5~6年頃に黄色と黒のボーダー編みのセーターを

着ていた。これ、誰に買ってもらったのかよくわからない。
叔母か祖母だろうと思うが、こういう服装センスは、祖母

だったのではないか、と今は思う。男の子が着るにしては
少し色の選択がヘンだ。私の母はわりと無地で地味な色の
セーターや服を買って、私に着せていたと記憶している。

 

そのセーターを着るのは何か気恥ずかしかった。色合いと

編み模様が男の子っぽくなかった。でも、印象が強いのは

もう一つの理由。私自身、そのセーターに合わせて肌色の

タイツを穿くことが、どういうわけか、好きだったからだ。

 

肌色タイツのことについては以前のブログで書いているが、

学校に穿いていった初日に妙に意識してしまって、以後は

学校へはなるべく穿いていかないようにしていた。でも、

肌色のタイツが嫌いだったわけではなかったし、祖父母の

家に行く時などに、母によく肌色タイツを穿かされていた。

通学に使われなかった肌色タイツは、準よそ行き用だった。

 

黄色と黒のセーター。これと、肌色タイツの組み合わせの
どこが自分の琴線に触れたのだろう?そして、さらに私は、

半ズボンを脱いで下半身はタイツだけにした方が好きだと

はっきり思っていた。その姿を自宅の鏡台で写してみたし、

祖父母の家で周りに人がいない時、その格好をして鏡台の

前に立った。合わせるタイツは黒ではなく肌色がよかった。

 

 

それらは、タイツ女性に強く魅かれる、今の嗜好に繋がる

原点的行為だったような気がするのだ。でも、小学生当時、

セーターを着て肌色タイツを穿くことに性的な意味はなく、

単純な好みでしかなかった。半ズボンまで脱いでしまって

下半身タイツだけでいたかったのはどうしてか不明だけど。

 

 

 

 

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施設ボランティア。ピアノ、歌伴。演奏はともかくとして、
自分の方向音痴加減にほとほと嫌気がさした。この暑い中、
30分以上彷徨い歩いて、結局、3人の親切な通行の方に
訊いてもたどり着けず、空車のタクシーを拾って案内して
もらいました。こんなことなら、素直に駅からタクシーに
乗ればよかった。集合時間に15分遅れて到着。 自分が
歌うわけではなかったので、少し気は楽だったけれど。

 
でもアヴェ・マリアを2曲伴奏。全部クラシック選曲では
つらいので、他の3曲のうちに歌謡曲を2曲混ぜてもらう。
超久しぶりのクラシック。でも、私は完全譜面どおりには
弾けません。だって譜面どおりだと飽きちゃうんだもん(笑;;

前々日にバイオリン譜を一つ、急遽、書いて、でもその人、
私が書いた五線譜どおりに弾いてくれてたのでよかった。
演奏会の進行が早過ぎる中、MCを振られて、少し長めに
お話をしたのだけれども、時間調節も上手くいきました。
ひょっとしたら、私って、MC得意かもしれません(;^ω^)




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