未来が決定しているか、していないかは観測者の予想力、想像力による。
したがって、感情に基づく不安、稚拙な動き、未来とは無関係である。
マクロでは決定されている。ミクロでは重なり合っている。
「決定している」と考えるのも単純だし、「決定していない」と確定して考えるのも単純で、決定していると考えることと同じことだ。
実は、決定、非決定という対立自体が無いのが因果の実体だ。
対立観念に基づく分別妄想に陥らず、実相を見る。
光が、粒子か波かというのは、人間が分かりやすいような人間の認識の都合によるものだ。それと同時に、在るか無いかも、対立観念で、分別妄想である。
実相は重なり合っている。人間の認識の都合で、一直線上に表れているにすぎない。
一切の対立観念を捨てきった時、実相が表れる。
観測者が、認識、決定する存在だから、マクロの世界では一直線になる。
迷っている限り「野狐」は「野狐」なのです。
決定、非決定で迷っている限り、因果の実相が分からない。
何かするわけです。そして、その〝何か〟とは何なのかを追求したいと思ったのです。
地図は分かっている。方角も分かる。
自分がどこにいるかが分からなけば、目的地にたどりつけない。自分がどこにいるか分かれば目的地にたどりつける。
目的地を通行人に聞いても、答えられないが、近くの目立つものを聞くなら答えてくれる。質問の仕方だ。
今、自分がどこにいるかが分かればいい。
一つ一つ個々の正否ではなく、動き、心、脳の働き、考え方の質的転換を積み重ねていく。
スポーツから武道へ考え方転換するのと同様のスタンスだ。