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漱石・子規 房総探勝碑除幕式
 
 1889年、漱石は23歳のときに友人らと房総を旅し、漢文で旅行記「木屑録」を記した。
鋸南町の保田で海水浴を楽しみ、鋸山に登った。その後、東金、銚子を経て帰京した。
木屑録に刺激され、子規は1891年(明治24年)に市川、船橋、佐倉、成田、大多喜、小湊、鋸山を歩き、紀行文「かくれみの」を書いている。 
 ふたりの交友、房総探勝をきっかけに関さんらの顕彰碑設置の会が日本寺住職とともに趣旨賛同者により文学碑を建立しました。 
2014/5/15(木) 午後 3:16
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漱石の夏やすみ 房総紀行「木屑録」 高島俊男 著  朔北社

「木屑録(ぼくせつろく)」は明治22年、学生だった漱石が23歳の夏やすみに友人5人と房総旅行に出掛け、その見聞をしるした漢文紀行です。
いろいろな意味で用いられる「漢文」という言葉を、著者がわかりやすく、そしておもしろく解説。「漢文」とは一体何か?「漢文の常識」がくつがえされます。
また、日本人と文章の不思議な関わりについて、興味深い事実の数々も明かされています。 
2014/5/15(木) 午後 3:22
 
夏目漱石の房総旅行 木屑録を読む 斎藤 均 著 崙書房
 
 文豪夏目漱石が明治二十二年(一八八九)八日、学友と共に房総に訪れ、二十四日間の長旅からかえると十日程で、紀行漢詩文集『木屑録』を書き上げた。千葉存住の著者が、後の文豪の若き日の作品を多くの人に親しんでもらおうと意図した。
 漱石は、第一高等中学校では英文学を専攻することをひそかに決意してはいたが、少年期の自己の資質に対する独善的な評価を修正する機会をえたのはこの房総旅行においてであった。漱石が他の学友と比較して、旅行中寡言であった理由は、そもそも旅のとらえ方に大きな差異があったからにほかならない。学友が旅そのものに心を躍らせている一方で、若き漱石は世界観醸成のために自然と真正面に向かい合ったのである。
 英文学を専攻しつつ、東洋の文学観や世界観を自己のよりどころ、あるいはまた己が文学の支柱として求めるという精神生活の二重性は、やがて桎梏に転化し、留学期まで漢詩は散発的に作られたものの留学を終えて帰国して後の小説の創作に追われていた時期に一時漢詩からはなれたものの、明治四十三年の胃潰瘍入院中に再び詩心がわいている。また、晩年の神経衰弱の再発に際し、安定剤となりえたのが南画や書であり、漱石はそれらにたいして没我的に傾倒していった。自己救済の方法でもあった。
2014/5/15(木) 午後 4:20
 
漱石と子規 手紙 ロンドンの焼芋 関 宏夫 著 暮らしの手帖社編集
 
 明治時代の小説家、夏目漱石と俳人の正岡子規。2人が房総半島とゆかりがあることについて、いすみ市の元高校教諭、関宏夫さんは20年以上にわたり研究。集大成となる著書を自費出版した。
「漱石と子規手紙ロンドンの焼芋」(335ページ、2千円)と題した冊子は、関さんにとって3作目となる漱石、子規シリーズだ。
2人は20代前半の学生のころ、房総半島をそれぞれ旅したことがある。旅の情景をまとめた紀行作品として、子規は俳句でまとめた「かくれみの」、漱石は漢詩文でつづった「木屑(ぼくせつ)録」を残した。

今回の著書では、これらの内容をあらためて紹介。同時に、2人が紀行作品に対する感想を手紙でやりとりして友情を深めていったことも解説する。
 
 この関さんらの想いと相まって、漱石・子規二人の房総探勝と「木屑録」、「かくれみの」作品を記念し、文学碑の設置活動が展開されてきた。 
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2014/5/15(木) 午後 6:22

文学碑序幕イベントをダイジェストしました。
 
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序幕の模様

 
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ロンドンの焼芋を執筆した
関 宏夫さん

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展示された子規・漱石の人形
 
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鰻の安田四代目女将 
安田徳子さん
 
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武蔵大 欒 殿武先生の講演
欒先生の講演で次のレジメ資料が提供された。
漱石「木屑録」の旅
交通手段
・汽船通快丸(明治15年、安善社運行、
霊岸島から、浦賀、加知山、那古、館山、小湊、浮津、勝浦まで)
・汽船房州丸(明治15年、安房共立会社運行、房州旧区戸長と、豪農設立、
越前堀から、浦賀、保田、加知山、多田良、船形、名古まで、荷物が中心)
・汽船通運丸(推測)、内国通運会社は、明治10年5月1日から、利根川筋往復の蒸気船旅客及び運送を始め、明治17年3月に航路を外洋に拡張し、東京湾を横断し、相模国浦賀を経て、房州沿岸諸港に至る航路を開いた。
明治22年11月に東京湾汽船会社の創立に賛同し、房相豆の各航路を同会社に譲渡した。(「内国通運株式会社発達史」より抜粋)「内国通運会社にてハ今度一萬園餘かけて堅牢なる小蒸気を製造し、2月よりハ房州館山通ひの通運丸三艘を以て航海するといふ。」(「読売新聞」明治20年1月9日)
 
(漱石「木屑録」の旅ーー風景の成立)
 本文を読む(レポートより) 
Natsume Soseki and his friends did travel to round the Boso Peninsula from August 7th 1889 to the 30^<th>. Returned from the trip to Tokyo, Soseki wrote the travel book, Bokusetsuroku in classical Chinese, which referred to his experiences on the trip, and asked his friend, Masaoka Shiki, to review this book. In this paper, I would like to analyze Bokusetsu-roku discussing such focal points as: 1) the issues concerning Soseki's knowledge of classical Chinese and his style of travel writing: 2) the ways of describing Boso sceneries with regards to Soseki's perspective as a prose writer: 3) how Boso sceneries are signified in the narrative. It is clear that Soseki was impressed by the natural beauty of the Boso Peninsula. For Soseki, the travel to the Boso was not just a travel for sight-seeing, but it was the literary practice of searching for the way to go beyond the concepts of realistic sceneries represented by the Chinese poetry and the Painting in the Nanga style.
 
 
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              当日配布された記念誌
 
 
「木屑録」読書の旅!

 漢文を読み、ダイレクトに理解するのは、はなはだ困難でした。各先生方の読下し文と、解説を参考に、二人がたどった房総の旅を想像してみた。
 

中でも、漱石の「木屑録」から、
    総じてみれば木屑録は三十三段まで保田周辺、鋸山、誕生寺の風景を中心に描かれたが天津小湊から利根川上りを経て東京までの記録は三十四段の漢詩五首だけで済まされてしまっている。
    よって、全体的に竜頭蛇尾の感がある事は否めない。それまでの文章からは、風景と言う自然の美を発見し、その体験を漢文、漢詩で記し、人に伝えようとする感動が読み取れる。
    また文章の間に差し込まれた漢詩は、風景を中心とし、読者に明るい印象を与える。
    さらに、対句などの規則も簡単で風景の描写や個人感情の表出に便利な古詩を二首も取り入れられ漱石が感動した房総特有の風景が生き生きと描かれている。
    しかし、文末の三十四段の漢詩には月並の風景しか描かれていない。もちろん漢詩そのもの自体には「秋林」「荒駅」「江村」「墨江」などの詩語もあるし、秋の季節の特徴も現れているから風景がちゃんと表現されている。
    しかも、それらの風景がどこにでもある風景で、「秋千里」や「涙万行」のような漢詩特有の常套の誇張的な表現も使われている。
 それらの風景は漱石特有の「愁い」をあらわす雰囲気づくり、もしくは舞台装置のようなものであり、東金から銚子、利根川上り、三ツ堀に至るまでの景色は、前半のような写生的なものとは明らかに異なる。
    つまり、中国の古の詩人たちのように、風景の集団的表象を外在化させることによる自己表現に戻ってしまった。その理由は2つ考えられる。
 1つ、これらの漢詩における時間の推移はちょうど夏から秋の時間の縁に当たる。秋の季節や風景は東洋ではとりわけ詩人の寂しい気持ちを誘いやすい。季節の変化は漱石の脳裏に染み付いた東洋的文学感情を呼び覚ましたのである。
 2つ、二十四日間にわたる長旅が終盤にさしかかり、郷愁の念に駆られ一行五人が帰路を急ぎ、風景を楽しむ余裕はなくなったかもしれない。よって時間的に後半の帰路は執筆に近いにも関わらず、風景がほとんど記されていない。風景が急速に色あせて、かつ風景を見る視線もぼやけて、見つめる対象も抽象的になっている。それに伴い、詩も個性を失い、パターン化してしまったのである。
 

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(漢詩、読下し文)
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まとめてみると
・漱石にとって貴重な異境体験であった。日常を相対化し、日常性の差異化、逸脱を経験し、新しい視点で風景を発見することができた。
・従来の漢詩のかたを破り、写実的風景描写から脱却し、写生的な試みの第一歩を歩みだした。文章家の原体験を求め、心象風景だった南画を自然の中に見つけ、模写することにより、対象への細かい観察力を身に着けた。
・房総の風土が漱石に大きな感銘を与え、「木屑録」の成立につながったのみならず、旅の体験が漱石作品に様々な形で生かされた。房総紀行は漱石の自然観の形成および文学の形成に少なからぬ意味を持ったに違いない。

「木屑録」と漱石の小説については、
・「草枕」三
・「門」四の八
・「こころ」八十二
を参照されたい。
2014/5/24(土) 午後 9:20
 
 先の銚子~三ツ堀間の疑問については、利根川の通運にヒントはないか県立図書館にレファレンスをお願いしました。
 以下のような回答がございました。
 
千葉県立図書館です。
さきにご依頼のありましたメールレファレンスについて回答します。
 
受付番号:6000016271
 
質問の題:明治20年ごろの利根川の通運・交通について
 
<質問内容>『木屑録』文中に登場する房総の地名は、保田、小湊、東金、銚子、三ツ堀等である。
銚子、三ツ堀間は利根川の通運・交通()を利用したとのこと。
そこで、利根川の当時の通運・交通状況を把握できる資料等を紹介されたい。
  
追加情報あり  6000016308
 
 <回答>追加情報のご提供、ありがとうございました。
この中にあった、汽船や、航路に関する資料の所蔵も念頭に置き調査いたしましたが、とりあえず「利根川の水運、交通」関連の資料からお知らせいたします。
 
近代の利根川関係の河川交通資料として比較的まとまっているのは、【資料1】『図説・川の上の近代 通運丸と関東の川蒸気船交通史』です。この本は平成19年開催の江東区中川船番所資料館・物流博物館・吉岡まちかど博物館3館における合同展「川の上の近代 川蒸気船とその時代」の展示解説図録です。とくに関東地方の蒸気船の代表的存在といえる内国通運会社の通運丸を中心に取扱いながら蒸気船が各地の河岸に与えた影響や蒸気船による旅の様相をまとめています。(「はじめに」より)
ご依頼の年代、地区とぴったり一致するわけではないのですが、以下に、明治20年頃の銚子、三ツ堀関連の河川交通について、掲載の箇所をご案内します。
・p112?「明治期・関東地方における蒸気船交通史の概観-利根川流域を中心に-」という解説があり、p116「明治18年初頭、利根川流域航行蒸気船一覧」の表は航路、船名、定繋場、定航地方などが掲載されています。定繋場-定航地方の組み合わせが「銚子」「三ツ堀」になっている船については下川航路で「銚子汽船」所有の「第1銚子丸」等3種掲載されています。
・p11「同盟関係の成立と航路の安定」の項で、「明治10年代後半の航運会社との競争を通じ、利根川水系では内国通運・銚子汽船・木下の吉岡家などによる同盟が成立します。明治20年代に入ると、主に江戸川・上利根方面は内国通運、下利根方面は銚子汽船・吉岡家という棲み分けが成立し、内国通運の航路も安定していきます。」と記載されています。
・p8は(通運丸の)「初期の航路延長(明治10年(18775月就航?同19年(1886)まで)」の表によると下利根霞ヶ浦方面に内国通運会社決算報告18年による、出発地が三ツ堀で終着地が銚子という項目があり、備考欄には「高田丸2艘購入により航路拡張」と記載されています。
・p12「通運丸の航路の変遷(明治20年以降)の項目で、
<明治21年(1888)の航路>に東京?鉾田・銚子線:汽船3/
東京?鉾田、銚子間という航路の掲載があります。
・p68「蒸気船の旅」の項目に日記に描かれた城沖線の旅「東京旅日記」の項目があり、明治時代の老夫婦の10日にわたる旅日記で、ちょうど明治20年の124日に出発した旅です。木下から三ツ堀に向かう途中の船中の様子が書かれているとあります。
また、p69<三ツ堀・今上巻の陸路連絡>という項目では資料の説明に「三ツ堀・今上ルートは、明治233月の利根川開通以前には江戸と利根川を結ぶ重要なルートのひとつで、「東京旅日記」の老夫婦が三ツ堀で下船したのち大雨の中を今上鹿島で歩いたと考えられるルートが記されています。」と記述があります。
 
この他、いただいた追加情報の内容も含めて、関連記述の掲載資料をご紹介します。
【資料2】『千葉県の歴史 通史編近現代1』のp639?「第1節房総の水運」「1船が結ぶ東京都房総」p643?「2 内陸の水運」の項目があり廻漕会社の設立や経緯、交通事情などが記述されています。三ツ堀銚子間の明治20年の状況についてはみつかりませんが、関連したものとしては、p644に、1884年に航路を東葛飾郡三ツ堀(野田市)に延長して下利根川は同盟汽船が、野田以南の江戸川は通運丸が航行したとの記述があります。また、p645に銚子-東京間の運賃は1888(明治21)年1011日の『東海新報』によれば63銭で、上等は3割増しであったなどということや所要時間などが簡単に記述されています。
 
【資料3】『水郷汽船史 ふるさと文庫』のp15「通運丸航路開設一覧」という表の航路延長の項目に「明18.317」に「三ツ堀?銚子間増便」と記載されています。また、p17の「銚子汽船会社の所有船舶及び航路」表があり、「明治16.8」の項目に項と解説状況として「銚子?三ツ堀」と記載があります。
 
【資料4】『新編・川蒸気通運丸物語 利根の外輪快速船』は、タイトル通り1冊が通運丸の資料を織り込んだ物語です。p1415に「明治中期頃の通運丸航路図」が掲載されています。この図が何年のものかという記載はなく、すでに利根運河の航路が記入されています。
 
【資料5】『那古史』p936に、明治14年に設立された「安房汽船会社」が「房州丸を始め汽船3隻を霊岸島との間に就航させた」と記載されています。その後の房州航路の変遷や船賃についても記載されています。
 
また、【資料10】『内国通運株式会社発達史』についてですが、千葉県内の所蔵はありませんでした。国会図書館で所蔵されており、「デジタルコレクション」で本文をご覧になることができます。
国立国会図書館のホームページのトップページの左側に「国立国会図書館デジタルコレクション」の入り口があります。ここから入って『内国通運株式会社発達史』で検索をかけると、本文が出てきますのでご利用ください。このデジタル資料の3435コマ目には「明治214月編製 内国通運会社通運線路略図」があります。日本地図上に路線が記入されていて、拡大もできますが、細かいところまでは多少判別が難しいようです。また、72コマ目からの「汽船通運丸航運事業の創設」の項目に利根川の航路に関する経緯が記述されています。75コマ目には、房州航路の記述もみられます。
 
この他参考として、明治時代の廻漕会社や水運の状況が書かれている【資料6】?【資料9】を参考にご紹介します。
 
(紹介資料一覧)
【資料1】『図説・川の上の近代 通運丸と関東の川蒸気船交通史』(川蒸気合同展実行委員会2007
【資料2】『千葉県の歴史 通史編近現代1』(千葉県千葉2002
【資料3】『水郷汽船史 ふるさと文庫』」(筑波書林1984
【資料4】『新編・川蒸気通運丸物語 利根の外輪快速船』
(崙書房出版2005
【資料5】『那古史』(那古史編纂委員会 那古地区連合町内会 2007)
【資料6】『利根川汽船航路案内』(崙書房1972
【資料7】『利根川ハイウェー 利根川水運の盛衰を探る』(千葉県立関宿城博物館1996
 
(千葉県立中央図書館 千葉県資料室)
 
【資料8】『利根川舟運と利根運河 平成22年度企画展』(千葉県立関城博物館2010
【資料9】『川蒸気船銚港丸の誕生とその終焉 船主吉岡七郎の活躍』木下まち育て塾2011
 
(当館未所蔵)
【資料10】『内国通運株式会社発達史』(内国通運1918)国立国会図書館デジタルアーカイブ
 
(返礼) 
 担当者  さま
 
 ご丁寧な資料紹介のご回答ありがとうございます。
 今回の調査の切っ掛けになったのは、漱石の「木屑録」の行程の中で銚子~三ツ堀間の表現が保田や小湊に比べ、はしょった感じに思えたからです。
 先だって行われた漱石・子規の房総鋸山探勝碑除幕式の特別講演で、武蔵大の欒 殿武先生が同様の感想から当時の利根川の通行状況を調査され、先の資料の所在の説明をいただきました。そして、漱石の木屑録を読んだ感想を添えられておりました。(以下、略)
2014/5/31(土) 午後 1:20