ダメ害酷人劣伝~マーク・エーカー
当局『お気に』の、成績的にはダメだったけど愛すべきプロ野球害酷(外国)人選手を取り上げるシリーズ。結構、お久し振りだったりしますね。
今回は、'98~'99年に掛けてヤクルトスワローズに在籍していた右投げ右打ちの投手を特集!
モトをたどれば、 '68年9月16日、米国カリフォルニア州生まれで'91年8月5日、オークランド・アスレチックスに入団。'94年5月13日、カンザスシティ・ロイヤルズ戦でメジャー初登板を果たし、このシーズンは34試合に中継ぎ要員として34試合に登板し、5勝1敗・防御率3.41と活躍。
その後も中継ぎとして活躍も、'95年は43試合1勝2敗・防御率5.71、'96年は22試合1勝3敗2S・防御率6.12、'97年は15試合2勝・防御率5.74と中継ぎ専門投手としてはやや安定感に欠け、'97年シーズンオフにヤクルトが獲得。
ヤクルトでは、'95年に14勝を挙げて最優秀防御率(2.33)のタイトルを獲得したテリー・ブロス投手が'97年オフに退団し、西武へ移籍。『ポスト・ブロス』としてブロス同様(約205.7cm)の長身右腕(約203.2cm)を獲得したという。背番号は24でした。
'98年は故障で出遅れるも、もう一人の助っ投だったトラビス・ドリスキル投手が成績不振(7試合1敗・防御率4.80)だった上、当時の野村克也監督に暴言を吐き解雇されたこともあってか、エーカーはシーズン半ばに一軍昇格し、先発ローテ入り。
すると安定感抜群の投球を披露し、巨人戦でも無失点の好投を見せ、この年チーム1番の安定感を誇ったものの、投げる試合に限って打線の援護がなく、12試合の登板で防御率2.34の好成績を残したものの0勝2敗と未勝利でシーズンを終えてしまいました・・・。
が、安定感が評価され、'99年も残留。
'99年から就任した若松勉監督からは抑え起用構想を言い伝えられ、『エキサイティングだよ』等とエーカー本人も期待していましたが、右肩痛に苛まれシーズン途中に治療の為帰国し、そのまま帰らず。
'99年は結局、一軍・二軍共に公式戦登板は無くシーズン終了後に解雇されてしまいました。
今となっては、『知る人ぞ知る』というか『殆ど知られていない』選手かとは思いますが、当局的には『忘れられない』助っ投でした。

マーク・エーカー投手。知ってれば相当のヤ党です。/(C)2015 - 2020 Tokyo Yakult Swallows Baseball Club.
今回は、'98~'99年に掛けてヤクルトスワローズに在籍していた右投げ右打ちの投手を特集!
モトをたどれば、 '68年9月16日、米国カリフォルニア州生まれで'91年8月5日、オークランド・アスレチックスに入団。'94年5月13日、カンザスシティ・ロイヤルズ戦でメジャー初登板を果たし、このシーズンは34試合に中継ぎ要員として34試合に登板し、5勝1敗・防御率3.41と活躍。
その後も中継ぎとして活躍も、'95年は43試合1勝2敗・防御率5.71、'96年は22試合1勝3敗2S・防御率6.12、'97年は15試合2勝・防御率5.74と中継ぎ専門投手としてはやや安定感に欠け、'97年シーズンオフにヤクルトが獲得。
ヤクルトでは、'95年に14勝を挙げて最優秀防御率(2.33)のタイトルを獲得したテリー・ブロス投手が'97年オフに退団し、西武へ移籍。『ポスト・ブロス』としてブロス同様(約205.7cm)の長身右腕(約203.2cm)を獲得したという。背番号は24でした。
'98年は故障で出遅れるも、もう一人の助っ投だったトラビス・ドリスキル投手が成績不振(7試合1敗・防御率4.80)だった上、当時の野村克也監督に暴言を吐き解雇されたこともあってか、エーカーはシーズン半ばに一軍昇格し、先発ローテ入り。
すると安定感抜群の投球を披露し、巨人戦でも無失点の好投を見せ、この年チーム1番の安定感を誇ったものの、投げる試合に限って打線の援護がなく、12試合の登板で防御率2.34の好成績を残したものの0勝2敗と未勝利でシーズンを終えてしまいました・・・。
が、安定感が評価され、'99年も残留。
'99年から就任した若松勉監督からは抑え起用構想を言い伝えられ、『エキサイティングだよ』等とエーカー本人も期待していましたが、右肩痛に苛まれシーズン途中に治療の為帰国し、そのまま帰らず。
'99年は結局、一軍・二軍共に公式戦登板は無くシーズン終了後に解雇されてしまいました。
今となっては、『知る人ぞ知る』というか『殆ど知られていない』選手かとは思いますが、当局的には『忘れられない』助っ投でした。

マーク・エーカー投手。知ってれば相当のヤ党です。/(C)2015 - 2020 Tokyo Yakult Swallows Baseball Club.