今回ご紹介する論文
今回ご紹介するのはオランダのティルバーグ大学のナターシャ・リエトダイク(Natascha Rietdijk)氏による論文「ポスト真実政治と集団ガスライティング」です。
(原題:Post-truth Politics and Collective Gaslighting)
この論文はケンブリッジ大学出版局の学術誌『Episteme』 に掲載されており、2021年7月27日にオンライン公開(冊子版は2024年3月発行)されました。
オープンアクセス形式でどなたでも読むことができます。https://www.cambridge.org/core/journals/episteme/article/posttruth-politics-and-collective-gaslighting/88BDC6B5D1540817086E1027A0FF1B5A
内容は「ポスト真実」政治がどのようにガスライティング的手法を通じて、人々の認識的自律性(自分で考え判断する力)を損なうのかを考察しています。
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https://ameblo.jp/amebamra/entry-12919278148.html内容の要約 (Abstract)
「ポスト真実」政治は、知識と民主主義の両方に有害であると診断されてきました。
本論文ではこの政治がガスライティングとして知られる操作的手法と同様の方法で認識的自律性(epistemic autonomy)を根本的に損なう可能性があると主張します。
現代政治の事例を用いて、ポスト真実のレトリックを以下の3つのカテゴリーに分類しています:
● カウンターナラティブ(対抗する物語)の導入
● 批判者の信用失墜
● 多かれ少なかれ明白な事実の否定
これらの戦略は人々を認識的に孤立させ、信頼できる情報源とそうでない情報源を区別できなくさせ、方向感覚を失わせる傾向があります。
ポスト真実政治は権力を強化する目的で、個人の自己信頼(self-trust)(自分で考え判断する力)を蝕むことによって認識的自律性を損なう事を目指しています。
被害者に与える影響に焦点を移すことでポスト真実政治の具体的な害について新たな洞察が得られます。
ガスライティングの概念をこの領域に適用することは人々がこれまで見えなかった有害な力学を認識する助けとなり、それに対抗するための重要なツールを提供する可能性があります。
「ポスト真実」政治
「ポスト真実」という言葉は2016年のワード・オブ・ザ・イヤーに選ばれて以来、ジャーナリストや学者がその性質と危険性を理解しようと努めてきました。
この用語が指す現象は、事実や専門知識への関心の欠如を示す政治的言説の存在であり、認識論的に問題があることは否定できません。
既存の分析では
・知識への悪影響
(Levy Reference Levy 2017)
・民主主義への有害性
(Fish Reference Fish 2016; Suiter Reference Suiter 2016)
などが指摘されています。
しかし筆者は認識的自己信頼、ひいては認識的自律性を損なうという、まだ十分に認識されていない害があると論じています。
筆者はポスト真実政治を「客観的事実に関心のない、認識論的に機能不全な言説」と広範に定義しています。
ポスト真実レトリックの3つのサブタイプ
筆者は、焦点を当てるべき事象を以下の3つのサブタイプに分類します。これらは区別可能ですが、無関係ではなく、重複することもあります。
- ①カウンターナラティブの導入: 真実を曖昧にする。
- ②(潜在的な)批判者の信用失墜: 真実を曖昧にする。
- ③多かれ少なかれ明白な事実の否定: 真実を曖昧にする。
事例による分類
MH-17撃墜事件(ロシア):
この事例は、カウンターナラティブの導入を示しています。
ロシア政府は証拠が親ロシア派分離主義者に不利に積み重なる中で主張を一貫させませんでした。
○当初なされた主張
・機内に死体が詰められていた
・機体が偽物だった
・真の標的はプーチン大統領の飛行機だった
○その後変え続けられた主張
・ウクライナのジェット機に撃墜された
・ロシア製ではないBUKミサイルだった
これらのストーリーは、公衆を当惑させ、混乱させることを目的としています。
アマゾン森林火災(ボルソナロ大統領):
これは、批判者の信用失墜の例です。
ボルソナロ大統領は森林破壊の憂慮すべき率を公表した政府機関のトップを解任し「国のイメージを傷つけようとしている」と主張しました。
また、NGOが火災の原因だと非難し、国際メディアを「扇動的な攻撃」、外国の批評家を「植民地主義」だと主張しました。
バーサー論争(トランプ氏):
これは、明白な事実の否定の例です。
トランプ氏は長年にわたりオバマ大統領の出生地に関する疑惑(バーサー論争)を煽り続け、出生証明書が公開された後もその信憑性を問い続けました。
論争の終結時に、彼はオバマ大統領が米国で生まれたことを認めましたが、自身が噂を始めた責任を否定し、ヒラリー・クリントン氏が始めたと虚偽の主張をしました。
既存の分析と筆者の貢献
ポスト真実のレトリックが引き起こす害には
・誤った信念の形成
・党派的な部族認識論の台頭
・そして真実への無関心
・「でたらめ」
等があります。
また、民主主義を脅かす社会政治的な結果も指摘されています(例:機関への信頼の低下、情報に基づいた同意の侵害)。
筆者はこれらの分析に加えて、ポスト真実政治が「真実と虚偽、信頼できる情報源とそうでない情報源を区別する私たちの能力に対する信念」を損なう点で、ガスライティングに類似していると主張します。
このガスライティングの観点から分析することで、認識的自己信頼、ひいては認識的自律性を損なうというさらなる有害な影響が特定できます。
2. ガスライティングとは何か?
ガスライティングという用語は、1938年の戯曲『ガス燈』とその映画化作品に由来します。この物語では、夫が妻の財産を奪うために、彼女が精神的に病んでいると信じ込ませようとします。
定義: ガスライティングは、被害者に自身の判断、知覚、現実感覚を疑わせることを目的とした操作の一種です。
影響: 重度の場合、被害者は自身の正気すら疑うようになり、方向感覚の喪失や混乱、最悪の場合、絶望や抑鬱を引き起こします。
特徴: ガスライティングは単発の出来事ではなく、操作や欺瞞を通じて、個人の認識的自己信頼を着実に侵食しようとするプロセスです。
認識的自己信頼と認識的自律性の喪失
認識的自己信頼:私の認知能力(感覚、記憶、推論能力)が概ね信頼でき、それに基づいて真の信念を正しく形成できるという基本的な信念です。
これが損なわれると信念を形成するための基盤がなくなり、認識的主体として意味のある前進ができなくなります。
認識的自律性: 自己統治にあたり、真実を得るために能力を最大限に行使すること、つまり何を信じるべきか、誰を信頼すべきかについて反省し、認識的権威を良心的に特定し管理することです。
ガスライティングの影響: 成功したガスライティングの試みは、認識的自律性を侵害するだけでなく、着実に、時には永続的にそれを蝕みます。
認識的自律性の喪失は、混乱、方向感覚の喪失、そして他者への依存の増加を意味します。
ガスライティングの戦略
ガスライティングには多くの戦略が組み合わされます。
要素: 混乱、嘘、欺瞞、孤立、否定、非難、操作などが含まれます。
『ガス燈』の例: 夫は物を動かして妻を混乱させ、疲れていると暗示し、腕時計を彼女の財布に入れて盗んだと信じ込ませ、彼女を孤立させ、ガス灯が暗くなったという事実を否定し、愛と見捨てられる恐怖を操作の手段として利用します。これらの戦略の組み合わせがガスライティングを効果的にします。
効果的な理由と目的
信頼・依存関係: 被害者が操作者を信頼している、あるいは何らかの形で依存している場合(パートナー、家族、雇用者など)にのみ機能します。
被害者は、ガスライターの主張が真実であると信じることで、紛争を回避したり、見捨てられることを避けたりしようとするかもしれません。
究極の目的: ガスライティングの中心的な目的の一つは常に被害者をコントロールすることです。
批判や望ましくない見解をそらす手段として使用されます。
認識的自己信頼の喪失は被害者をガスライターと共犯者に依存させることにつながります。
3. ポスト真実政治と自己信頼の喪失
ポスト真実のレトリックの3つのサブタイプは自己信頼を損なうことによって認識的自律性を脅かす点でガスライティング戦略に類似しています。
1. カウンターナラティブの導入
政治的効果: 公衆を誤解させることもありますが、主に注意をそらし、混乱させるのに役立ちます。
真実が都合の悪い人物や組織にとって有利に働きます。
自己信頼への影響: カウンターナラティブは、平均的な市民が何が真実かを判断することを難しくし、圧倒的なものにします。
これは認識的環境をナンセンスで汚染し、個人の認識能力が真実にたどり着くのに適しているという信頼を損ないます。
自己懐疑は他の領域に容易に広がる可能性があります。
2. 批判者の信用失墜
政治的効果: 個人的なレベル(「ヒステリック」「妄想的」)または機関的なレベル(「フェイクニュース」「国民の敵」)で批判者を却下し、黙らせるために使用されます。
伝統的な認識的権威(科学者、ジャーナリスト)が、無能または信頼できないとして攻撃されます。
自己信頼への影響:批判者自身がガスライティングの被害者となり、批判の正当性や自身の動機に自信を失う可能性があります。
公衆が主な被害者となる場合、専門家の権威が疑問視されると、それに頼る人々は認識的に孤立します。
信頼の操作は、権威者を良心的に特定し管理する能力を阻害し、認識的自律性を直接的に損ないます。
他者への信頼が破壊されると、「私は自分の信頼を信頼できない」という事態になり、自己信頼が低下します。
3. 明白な事実の否定
政治的効果: 過去の発言や行動の責任を回避するため、あるいは面目を保つために行われます。
特に、発言の意図や解釈を否定する巧妙な形(例:「真面目に受け取るべきだが、文字通りではない」)は危険です。
これにより、政治家は支持者へのメッセージを曖昧に保ちつつ、批判者に対しては否定できる「逃げ道」を得ます。
自己信頼への影響: 聴衆にとって極めて混乱を招く。人々が尊敬し信頼する政治家が自信を持って自己矛盾するとき、聴衆は自分の知覚能力が政治的領域を適切にナビゲートできているかを疑うようになります。
特に、すでに混乱している人々にとっては周囲がその否定を繰り返す場合、自身の感覚や正気すら疑問視する可能性があります。
これらの戦略は、個別に機能するだけでなく、組み合わせることで互いの成功を強化し、自己信頼を損なう事で更なる支配への道を開きます。
4. 集団的ガスライティング (Collective gaslighting)
ポスト真実政治と個人のガスライティングには、認識的自律性を損なうという点で大きな重複があります。
両者は、欺瞞、方向感覚の喪失、孤立、混乱といった同じ戦略を用いています。
類似点と相違点
ポスト真実政治と伝統的なガスライティングにはいくつかの違いがあります。
関係性: 加害者と被害者の関係は個人的ではありません。
標的: 自己信頼の低下を経験する人が、レトリックの直接の標的ではない場合があります。
目的: 自己懐疑の引き起こしが、ポスト真実言説の主な目的であることは稀にしか見えません。
しかし、これらの違いは、見かけほど重要ではない可能性があります。
信頼と依存関係: 政治的な職務自体が、操作者と被害者との間に権力、尊敬、依存の関係を生み出しています。
共犯者の役割: 個人のガスライティングでも、加害者は被害者を認識的に孤立させるために共犯者を募り、味方から切り離します。
政治において、科学者やジャーナリストといった認識的権威が排除されるのは、これに類似しています。
自己信頼を高めていると感じる支持者は、被害者を混乱させ孤立させる共犯者として機能します。
究極の目的: 政治的なガスライターは政策を推進したり選挙に勝ったりするなど多様な目的を持つかもしれませんが、根本的な動機の一つは権力を獲得し維持することです。
異議を封じ、不都合な事実を曖昧にし、人々を混乱させることで、彼らはコントロールを達成します。
概念の重要性と抵抗
ポスト真実のレトリックがガスライティングと同じプロセスの一部であると理解することで、その効果的なメカニズムが見えてきます。
この視点は、知識への影響や民主主義への脅威を超えて、認識的自律性の弱体化という中心的な問題に光を当てます。
ガスライティングの概念は、この種の操作と抑圧を認識する上で実用的な重要性を持ちます。
解釈学的不正の解消: 被害者が自分に降りかかっている不正を説明するための言葉(概念)を持つことができます。
抵抗のツール: ガスライティングの力学を知ることで、潜在的な被害者がそれに対抗するための武器となります。
抵抗のための提言(ガスライティング文献に基づく)
- 認識的自己信頼の保持: 自己信頼は十分な資格のある認識的理由によってのみ譲歩すべきであるという認識を持つ。
- 問題の特定と真実の選別: 問題を特定し、歪曲から真実を区別する。
- 行動の選択: 批判的であり続け、関与することを拒否し、相手の土俵で議論することを拒否する。
- 社会的な条件の改善: ガスライティングは権力非対称性のもとで最もよく機能するため、権力不均衡を減らすことが重要です。政治や権威ある認識的機関において、より高い透明性、説明責任、アクセス可能性を促進するべきです。
- 機関への信頼: 個人として、政治家をチェックし批判するために最適な認識的地位にある機関への信頼を放棄しないことが重要です。
5. 結論 (Conclusion)
本論文の主要な目標は、ガスライティングの概念がポスト真実政治の力学と危険性について何を教えることができるかを探ることでした。最も重要な結論は、ポスト真実政治には、真の信念の獲得を妨げ、民主主義の基盤を挫折させることに加えて、認識的自律性を損なうという、まだ十分に認識されていない別の害があることです。
この害は、民主的なプロセス、知識の普及、個人の自律性、そして幸福に悪影響を与える可能性があります。ガスライティングの概念をポスト真実政治に適用することで、ファクトチェックだけでは不十分であり、依存度を減らし、人々が自己信頼を持つための適切な社会的条件を提供することが抵抗のために必要である、という示唆が得られます。

