以下は、上村静著『旧約聖書と新約聖書 ― 「聖書」とは何か』からの引用です。※と〔 〕は、注をこちらで挿入したものであって、そこは原文とは違います。

 

因果応報の神義論は、箴言においては単純に肯定され、ヨブ記においては現実との乖離として問われていた。黙示思想とは、ヨブの問いに対する終末論的解答であり、因果応報論の究極形である。この因果応報論を全否定するとともに、ヨブ記における間接的な解答をさらに徹底させる思想書がコヘレトの言葉である。

コヘレトの言葉は、「空の空、すべて空」という言葉で始まり、ほぼ同じ言葉で閉じられる(一2、一二8 ※一二9以下は後の付加。)。生きることは陽の下で労苦することだが(三10)、その労苦に益はない(一3)、なぜならだれしもいずれは死んでしまい、やがて忘れられ、また死後の報いなどありはしないのだから、〔※二16、三1821、六6、九2、5-6、一二7。〕というのがコヘレトの主張である。義人には幸い、罪人には不幸という箴言の応報思想を非現実として一蹴し、〔※七15、八12-14、九2、一〇5-7。〕 ヨブの神への問いかけを「多言を弄して、空しさを増す」(六11)と冷ややかにやり過ごす。黙示思想に対しては、この世の始めも終わりも、人の死後に起こることも分かりはしないと不可知論をもって否定する。〔※三11、22、六12、七14、八6-7、17、一〇14。〕 コヘレトによれば、神は人間の判断する善悪の価値基準(倫理)に従って個々人に報いたりはしない。そもそも「義人は一人もいない」(七20)。人間の善悪の基準からすれば、神は暴君なのであり、暴君に逆らってもしょうがないのだ。〔※二26、六2、10、七13、八2-4。〕 こうしてコヘレトは、神義論そのものを否定してしまうのである。

コヘレトは、生きることに「益」は無いという。人生は無意味である、と。いずれは死んでしまうし、いつ何が起きるか人には分からないのだから(九11-12)、何をしようがしまいが人生に「意味」などない。コヘレトのこうした冷徹な人生観は、受け入れがたいかもしれないが、だれも否定できまい。だが、そもそも人が問う生の「意味」とは何であり、何にとっての意味であるか。それは、「私が自分である」という自意識(自我)を満足させるもの、自我にとっての意味、自我の充足への欲求である。だが、自我は死とともに消え去るのだから、自我を満足させるための労苦に意味などないのである。では、自我を越えた人間存在の意味はあるか。「神はすべてをその時にかなって美しく造り、加えて、それらの中に永遠を付与した」(三11)と言われる。人間も「その時にかなって美しく」造られた被造物である。「だが」、とコヘレトは続ける、「人は、神が造った業の初めから終わりまでを見いだすことはない」(三11)。個々の人間存在は、神の業の永遠性(三14)の一部ではある。けれども、当の人間存在は、その神の業を見いだすことはない。つまり、自分の存在の「意味」を知ることはできない。それゆえ、「意味」を求めても空しいのである。そのような人間が労苦を負って生きるのは、「口のため」(六7)、すなわち、食べるためであり、生きるためである。だから人間にとってよいことは、「だれもが食べて飲み、自らのすべての労苦(与えられた生涯)の中によいものを見ること」である。〔※三12-13、22、五17、八15、九7-10。〕 それが「神の贈り物」〔※三13、五18。〕 であり、人間の「分け前」〔※三22、五17、九9。〕なのだ、と。

コヘレトはニヒリストである。だが、ニヒル(空の空)なのは、自我の求めるものなのだ。「義人」への正当な報いを求める応報思想、またその究極である黙示思想は、対立概念としての「罪人」の裁き(滅び)を要求する。それは一見まっとうな要求のようであるが、「義人は一人もいない」という人間についての洞察からすれば、実のところ自我の求める充足への欲求であり、エゴイズムの発露なのである。〔※誤解のないように記しておくならば、いわゆる「犯罪者」の犯罪行為を「裁く」ことを求めるのは正当である。しかし、「犯罪者」といえども、その存在そのもの、その〈いのち〉を全否定することは、エゴイズムであり、空しいことである。〕 空しいのは、エゴイズム、すなわち自他支配――人間による人間支配――への欲求である。「空の空」たるエゴイズムを克服するためには、自我を空とするニヒリズム(無我)が必要なのである。コヘレトは、「義なる神」という表象に期待される正義感(倫理観)に内在するエゴイズムから、律法順守というユダヤ教の要求に付随しがちな応報思想とその発展形である黙示思想に内包される暴力性から、神と人間の両方を解放しようとしている。(中略)

コヘレトがキリスト教で好まれないのは、その思想がキリスト教の根幹と相容れないからである。キリスト教にとっての救済は、終末時の信者の復活と永遠の生命の獲得にあるが、コヘレトはこれを全否定してしまう。キリスト教の救済論は黙示思想の枠の中にあり、それゆえ二元論的世界観を前提としている。つまり、それもまたエゴイズムの表現なのである(以上、引用終わり)P153~157