ミハイル・アレクサンドロヴィチ・バクーニン(M・A・バクーニン)は、汎スラヴ主義者で、アナキストだった。19世紀にロシア貴族の家に生まれ、革命を扇動して放浪し、ベルリンで客死した。マルクスの、「プロレタリア独裁」批判の功績はあるが、西洋社会に黄色人種への恐怖心を広めた一人である。バクーニンと〝黄禍論〟について、拙著で以下のように書いた。 

 

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   演題は「日露戦争と黄禍論(こうかろん)」で、教授の話を聴くのは、実に15年ぶりである。主催者の挨拶の後、スーツ姿の高見教授が登壇した。

「皆様、ご存知のように、西洋列強はアジア、アフリカや米大陸を植民地にし、数百年の繁栄を謳歌したわけであります」と、教授は切り出した。

 

   「しかし、19世紀末に日本が世界史の舞台に登場すると、状況は一変しました。西洋社会に〝黄禍論〟が登場したのです。西洋白人にとっての〝黄禍論〟は、モンゴルの大侵攻(13世紀)やオスマントルコの西進(15世紀)を彷彿させる有色人種への恐怖心です。まず、ロシアのM・A・バクーニンが、〝黄色い蛮族(中国人と日本人)〟の脅威を煽りました。そして、フランスのJ・A・ゴビノーが『諸人種の不平等に関する試論』を書き、ドイツのH・S・チェンバレンも『19世紀の基礎』という人種差別の本を書いて、白人の優越性を主張しました。

 

                                           

   日本は、日清戦争に勝ち、清国から遼東半島(旅順、大連)を割譲されました。しかし、黄色人種の台頭を恐れたドイツ皇帝ヴィルヘルム2世が、ロシアとフランスを〝黄禍論〟で扇り、〝三国干渉〟しました。その結果、日本は半島を清国に返し、ロシアが〝漁夫の利〟で租借したわけです。小国の屈辱に〝臥薪嘗胆(がしんしょうたん)〟した日本は、10年後にロシアと戦います」 

          (『国よ何処へ‐平成の日本語学校物語‐』第10章‐1)

                               

 

   関連リンク: ミハイル・バクーニン - Wikipedia

                           黄禍論 - Wikipedia

 

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