ピアノの弾き方に、法律があるわけではない

これは良いがあれはダメとされるラインは無い

結局、弾き手の自由...である

 

故障もなく音楽的に満ち足りていて、本人が疑問を持たなければ、

故意に変えようとするアプローチも必要ない

 

が、

このままでは、なんかこの先うまく行かなくなる気がする。。。という

ぼやーとした凡人学生のわたしの疑問は、結果、海を渡ることとなり、

国をまたいでまで考え続けるものになってしまった

 

頭の中で、幻の理想として響いていた美しいピアノピアニシモ

 

旅の始まり時は、自分がなにを分かっていないかすら分かっていなかったが、

これだったんだな、、、といまは認識できている、明確なもののひとつである

 

 

600以上ある筋肉、まだ解明されていない神経分野もあるという

人間の複雑な身体の使い方は幾通りもあり、

 

追い求める理想の音というものも、人によってあきらかな違いがあるので

同じ楽器を目の前にしても、それは大きく差異が出てくる

 

が、巷に文字化され出ているそれぞれの弾き方を

いいとこどりのように、同時に取り入れようとするのは、

変えられない身体の理論上、こちらを立てればあちらが立たずという矛盾が

必然的に生まれてしまうように、私は感じる

 

 

帰国後は何のしがらみもなく図らずして、一人旅の再出発だったが、

凡人なりの積み重ねは、

幸いにも引き続き自分の理想音へのベクトルに繋がったと感じている

 

もう一つのものを知れば、別のものとの違いはよくわかってくる

何が基本的に異なり、結果がどう違ってくるのかを整理できる

 

なんとも不思議なのは

決して今の奏法をめざしたわけではなく、偶然にもたどりついたというのが現実

この中の感覚が存在することすら知らなかったのが正しい

 

目の前には書籍やら頼る先生というものが無かったことから

その都度達成度を確認する手立ても無かったのもあるが

長く時間を要したのは、他に頼る道筋ではなく

己の身体を通した模索のみで得たからである

 

それは追い立てられるものもない、

言い換えれば、確かに自分を無理に追い込むことが無かった、、

しかし

競うことが苦手の私の性分には、大きく幸いしたと感じる

 

 

活動のエリアが狭いと、同じ方向の人に出会うことも余計無いが

その孤独に責められる感もありながらも

自分の身体の中で妙な確信があったのも事実だ

 

共演の機会が多い私には、

一番必要で得たいと感じていたソリストさんの機微な要求に反応するスキルとして

盤石なものとなっているからである