あまのじゃく医者の殴り書き


Amebaでブログを始めよう!
1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 最初次のページへ >>

植民地化?



週に1度、冨士山麓の病院に出張している。

半年前まで勤めていた病院だ。

http://iki-iki-hp.com/



住んでいるときは

診療スタイルへのこだわりのせいで

羽目をはずすことが出来ず

職場外でも緊張が取れなかった。


現金なものである。

職場が変わったとたん、一気にリラックスモードに設定された。


友人曰く「植民地にしてる」

確かにそうだ。

今もまた、夜の居場所を探している。



フバマと満天の星空から始まった

大学を辞めた後、高校時代にあきらめた

医学部受験を再度目指した。


「身内に1人ぐらい医者がいたら」

両親や親戚が何気なくいったであろう言葉が

一生の足かせになった。

自我の未熟な私にとって

“医師になる=生きる権利を獲得する”ぐらい大きなものであった。


やみくもな努力だけは大の得意であった。

高校時代、分不相応の公立進学校に受験の追い込みのみで合格した。

1日3~4時間睡眠を3ヶ月続けた。


意気揚々と入学した高校生活の3年間で

自信も希望も打ち砕かれた。

成績はクラスの下位に低迷し続け。

担任の教師の扱いは「バカな奴」であり、

努力が足りないことをしきりに繰り返した。


たぶん勉強時間だけだったらトップクラスだっただろう。

本気で生まれつきが悪い、もともと頭が悪いと思った。


どんなに努力しても報酬を得られることはなく

かえって罰を受けるという

負の強化が繰り替えされた。


なのに…

努力をし尽くしたと思っているくせに

医学部受験を目指した。

私の自我はそれほど不安定であった。


苦しい思考と感情の渦の中にいた。

でもどうしても医者になりたかった。

生きる権利の獲得のため。


結論は…今までのすべてを入れ替えること。であった。

自分が当たり前に思考すること、

無意識のレベルまで変えなきゃと考えた。


大前提があった。

今まで負の強化を続けてきた脳のシステムを変えることであった。


「どんな天才でも人間は脳の10パーセントも使っていない」

現在は否定的なこの初歩の脳科学の言葉を完全に信じた。


勉強は脳科学に沿ったもので無くては。


でもどうしたら脳のシステムを入れ替えることが出来るのだろう。


思いついたのは

故郷与論島の海と水平線近くまで星がみえる夜空であった。

海も子供の頃に遊んだ近くの浜、フバマでなければらなかった。


与論島の実家で受験勉強をすることにした。

父は奄美大島に転勤しており。

実家は誰も住んでいなかった。


私は子供の頃からの勉強部屋に叔父の家の倉庫に眠っていた

手作りの勉強机を運び、

その上に、1教科1冊ずつの出来るだけ解りやすく、薄い教科書と

数冊の問題集、ラジオ講座のテキストを並べた。


誰もいない古い奄美造りの家は

亜熱帯の巨大ゴキブリは闊歩し、天井裏のねずみは走り回り、

夜になるとヤモリの大合唱、

さながら生き物達のパラダイスであった。

孤独の世界に入り込んだ私には嫌なものではなかったし

家具も無い育った部屋で

黴と埃の混ざったにおいの畳の上で

大の字で寝そべるのも

何かに包まれたような気がして落ち着いた。


ほとんど毎日フバマにいった。

岩の上の小さなスペースで膝を抱えて遠い海を眺めていた。

そして自分の言葉で言い聞かせた。

「自分の能力は無限大」

フバマから広がる広大な海をイメージした。


夜は外に出て

満天の星空を見上げ、星空を突き抜け

無限の宇宙に広がるイメージをもった。

「自分の能力は無限大」言い聞かせ続けた。


23年たった今でも、時々このイメージが勝手に浮かんでくる。

以前は受験勉強のためだったが

今はこのイメージを持つことが

生きる安堵感につながっている。

誰かに何かに包まれていつも生きているような感覚。


フバマと満天の星空は私と一体になり無限大に広がる。























































自己愛の行方 ~父を想う~

尊大でありながら傷つきやすい自我…自己愛を

誰しも持っている。


この暴れ馬のような自我を乗りこなすことが

人の一生の課題のような気がしてならない。


10代のときに抑圧された私の大きな自己愛は

10代後半から20代の終わりまで

一気に爆発した。


その後も余震は続き、時折制御困難となった。


が、年齢を重ねるうちに

内から自然に沸き起こる“いい感じ”が多くなってきた。

伴って他人の評価が随分と気にならなくなった。


自己愛という膨大なエネルギーの

処理に成功したのか。

アルマゲドン脱出みたいな…。


周囲の多くの人々に自己愛の処理に混迷し、

支えとならない方向にへ向かっている姿を見る。

以前は私だけだと思っていたが。

苦しそうだ。


まだ小学生の私に父親は「哲学をしなさい」と言った。

その当時はなんのことやらわからなかった。

私の未来を見越してのことだったのか。

暴発のときから

この一言を頼りに私は生き方の“宝探し”を続けた。


父はまだ混乱が続いていた医師に成り立ての頃、

医師である私でも経験しないような

壮絶な闘病生活の末他界した。


父は中学もろくに行っておらず

戦後のどさくさに離島周りの教員になった人であった。

物心ついたときには父親はすでに亡く

昔かたぎの母親は3男坊の彼に

長男と次男が戦死するまで目を向けることはなかった。


子供の頃の我が家は

壁が見えないほどに本に埋め尽くされていた。

父親は己の支えをこの膨大な数の本に求めていたのだと思う。


父は私にたくさんの生きるための言葉と態度の記憶を残してくれた。

今、この一言は

愛情深い父親の私への最大の贈り物となっている。












1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 最初次のページへ >>