内的自己分析 神観

 神観というは歴史によって変ってきましたね。原理講論では事情の神と説いてます。人間の堕落行為に干渉できない神の事情を解いてます。これは新しい神観ですね。今まで解いた人はいないでしょう。被造世界に対しては無力の神であられるのです。なんら干渉を許されない神であられる理由は原理講論で説明しています。

 さらにこの話を進めてみたいと思うのです。

 

 創造原理(二) 被造世界における人間の位置 には次の様にかかれてます。

 第一に、神は人間を被造世界の主管者として創造された(創一・28)。ところで被造世界は、神に対する内的な感性を備えていない。その結果、神はこの世界を直接主管なさらずに、この世界に対する感性を備えた人間を創造され、彼をして被造世界を直接主管するようになされたのである。したがって、人間を創造されるに当たって、有形世界を感じ、それを主管するようになさるために、それと同じ要素である水と土と空気で肉身を創造された。無形世界を感じ、それを主管するようになさるために、それと同じ霊的要素で、霊人体を創造された。変貌山上でのイエスの前に、既に一六〇〇余年前に亡くなったモーセと、九〇〇余年前に亡くなったエリヤが顕現したとあるが(マタイ一七・3)、これらはみな、彼らの霊人体であった。このように、有形世界を主管できる肉身と、無形世界を主管できる霊人体とから構成された人間は、有形世界と無形世界をみな主管することができるのである。

 第二に、神は人間を被造世界の媒介体として、また和動の中心体として創造された。人間の肉身と霊人体が授受作用により合性一体化して、神の実体対象となるとき、有形、無形の二つの世界もまた、その人間を中心として授受作用を起こし合性一体化して、神の対象世界となる。そうすることによって、人間は二つの世界の媒介体となり、あるいは和動の中心体となる。人間は、ちょうど二つの音叉を共鳴させるときの空気のようなものである。人間はこのように、無形世界(霊界)と通ずるように創造されたので、あたかも、ラジオやテレビのように、霊界の事実をそのまま反映するようになっている。

 第三に、神は人間を、天宙を総合した実体相として創造された。神はのちに創造なさる人間の性相と形状の実体的な展開として、先に被造世界を創造されたのである。したがって、霊人体の性相と形状の実体的な展開として、無形世界を創造されたので、霊人体は無形世界を総合した実体相である。また肉身の性相と形状の実体的な展開として有形世界を創造されたので、肉身は有形世界を総合した実体相となるのである。ゆえに、人間は天宙を総合した実体相となるので、しばしば人間を小宇宙という理由は、ここにあるのである。

 

 すなわち、被造世界に対しては無能な神なんですね。これは一体どういう意味なのかを考えて見ましょう。これは新しい観点からの見方なので皆さんは驚かれるかもしれません。私達ははじめから計画があって計画通りになると思っています。しかし、予定論で説明している内容ではそうでありません。

 神という存在は無から始まりそこにすでに理想の青写真があると考えるのですが実はそれもなかったと思います。何もない状態から始まった創造の開始です。そこにどんな世界になるかも、創造主ご自身がどんな形になるかも、どんな世界が現れるかも予想できない立場と考えるのです。そして被造世界に対しての現われも創造主としては感じる事は出来ないのです。宇宙が始まって、地球がうまれ、そこに生命が誕生し、そして植物、動物が誕生しそして最終的に人間が現れるのですね。人間が現れるのも疑問が沢山あります。大体アダムとエバという人類始祖と言いますが、どうして自覚できるのですか?自分が人類の始祖なんてどのように自覚するんですか?自分の親は誰ですか?自分の親が教えてくれますか?アダムとエバが相談して決めますか?そこに何らかの会話が出来る言葉がありましたか?考えるだけで無理な疑問の数々がありますね。これに対してどのように答えるのでしょうね。

 私はこう思うのです。人間の赤ちゃんが誕生して初めて創造主は被造世界を感じ取ることが出来始める。だから創造主も赤ちゃんの時代がありますね。子供の時代がありますね。そして環境を見ることも、感じることも、聞くことも出来る創造主であられるのです。なぜかというと被造世界を感じることの出来る人間が現れたからです。当然、人間の成長と共に被造世界を感じるというのが理論的に信憑性が高いのです。そして人間が成長する過程と同時に創造主も同じように人間と共に感じることが出来るというものです。

 全知全能の神であられても事情の神であられ、被造世界においては無能の創造主であられることを何処まで感じられるのでしょうか?神がよい環境を与えてくださり、神が守ってくださり、神が導いてくださると信じる人間が実際にそんなことのない悲惨な人生を歩むことになると、それは神に対する信仰の弱さとして評価しますね。キリスト教が沿うでしょう。絶対的信仰を貫いていきます。しかし、神を信じるキリスト教を母体にして神を信じない共産主義が表れるのは理論的なんです。それは神観の違いによるものでしょう。

 創造主は被造世界を人間を通じて感じられる存在だということを考えています。人間だけを通じて感じられる創造主であられると言うことですね。それでも私達は環境に神を求めて現象に神を求めてよい事だけを神に求めて生きてますね。それは創造主の事情を知らないというよりか、人間自身の自己の責任を知らないところからきているのではありませんか。

 人間がいろいろな現象を通じて感じるでしょう。人間には喜怒哀楽があります。その喜怒哀楽を通じて環境の現象を善と悪に評価しているのでしょう。嬉しい、楽しい、心地よい感情を持ったとき、その環境の現象を良い現象である。善なる現象であると評価し、生活で悲しい、苦しい、痛い、辛いという感情を持ったその環境の現象を悪い現象であると評価してますね。

 アダムとエバの子供のカインとアベルの関係で供え物の為に二人の兄弟は準備していましたね。そしてある現象が現れました。それはアベルの供え物を受け取ったという現象でした。するとアベルは気分が良いわけです。そしてカインは気分が良くないのですね。その関係はいったいとこから生まれてくるのでしょうね。人間の感情は現象を通じて現れます。そしてその現象に直面した時に違いが現れたのです。この時に言葉なんてありましたか?この時にあったのは気分だけなんです。カインは自分の供え物を受け取られなくて、弟のアベルの供え物を受け取られて気分が良くないわけです。その様にカインは現象をみて評価しました。アベルは自分の供え物を父が受け取ってくれたので嬉しいですね。ところが兄のカインの立場に立って考えなかったのです。当時そんなことが出来たと思いますか?今の人間の中二も人の立場に建って考える事が出来ない人がいるのに、出来たと思いますか?兄は気分が悪くてそれを解消するために行動にしたのです。

 み言葉では今の人間が当時生きていたように表現されてます。でも、そこをよく考える必要があるのではありませんか?言葉を話していたなんて考えられないでしょう。

 信仰で神を信じていますが、私はよく考えないといけないのではないかと思います。信仰で神を感じる次元では自分の中に神を生み出した本性に気が付きません。結局、神の概念の正体は人間の内側の本性から来ているのです。これに誰一人として気が付きません。自分がもしかしたら間違っていて自分が改めないといけないでしょうね。きっとそう説明を受けると思います。そうしたら自分の感覚を否定してまた同じように概念の前に縛り付けられながら生きる事になります。仕方がありません。

 

 

 

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