一人でも大変なのに、人数が増えてきたら絶対に駄目です。

 もともと自分はとっても傲慢だったので有名になりたいとか人々に知られた存在になりたいとか、人から尊敬される様な存在になりたいとかという思いが強かったですね。だから過剰適応になり承認欲求が強く現れました。人に承認された天狗の鼻が伸びるようにどんどんと伸びでしまいます。ところが現実はそんなに甘くないですね。自分自身が人々と同じスタートラインに立てないくらいに自分自身にはその様な能力がなかったんですね。

 概念の世界では人の上に立ちたいと思います。そうして人の上に立ってそれを繰り返すでしょう。人よりも優越感を感じながら段々と上に立って生きますね。そして目立ちます。どれ位目立つかということを意識しながら上に上がるのです。でも感覚の人は一対一の関係でしょう。上に上がると関係がもてませんね。下に下がらないと駄目でしょう。そして自分の責任にしないと良い関係は無理ですね。そして自分が犠牲にならないと駄目でしょう。そうしてよい関係を永遠につくるのが感覚から来る意識の働きなんです。そんな意識を持ってしまった自分はどうしてもわけの分からない苦悩を感じながら、人との違いを感じ、何か浮いている自分を感じて、どうしようも願いは頂点にたちたいと思っていても立てないのでどういう表現をするかというと、自分をいつも否定する神様の存在があるというような、そこに神観を引っ張り出してきて神の仕業としているのです。だから感謝しないといけないということでしょう。それはそれでよいですね。

 いつも叩かれながら生きてきたようです。認められると天狗の鼻がどんどんと伸びてしまいます。でも、それは無理でした。絶対に無理だったんです。なぜかというと感覚人間が概念で作られた世界で生きる、概念の人々と共に生きる事はとんでもないことだったのですね。苦痛と苦悩のせかいです。

 そこでその中で教育者になると言っても何を教えるのですか?指導者と言っても何を指導するのですか?感覚の人にはその様なものはありません。だから教えられないし、指導も出来ないのです。それを誰一人として理解できる人もいません。一人でいる人を可愛そうだといって集めますね。それも理解していない証拠なんです。現代社会の評価基準がその様になっていて多くの人々がそう考えているからでしょう。だから正規分布の真ん中の人は良いのですが、その両端のひとは当然ながら苦しむ様になるのですね。端にいる人々を真ん中に集めようとするからです。自分目線の評価基準があるからなのです。そんな正規分布なんて感覚の人にはありません。

 だから私が教育者とか指導者になったり、有名人に成ったりする事は死を意味しているのです。精神的に駄目になります。

 

 

 

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