サイパン島が陥落した後のある夏の暑い日に、一人の青年が尋ねてきたこの青年がもし、アボジであれば、29年ぶりの再会となるでしょう。もしかしたら、何回か会われていらっしゃるかも知れません。

 

 一回の初対面でこの様な関係はできないでしょう。

 

 この写真はとっても良いですね。双方の笑顔が印象的です。一体何があったのでしょうか?

普通ではありえない写真ですが、本当に素晴らしい写真だとおもいます。

 

 

 

 

 私の書いた昔の記事を発見しました。

 

 岸先生との29年ぶりの再開

 繆斌(みょうひん)工作--

 

 昔はこんな記事ばかり書いていました。思い出の記事です。読みたい方は読んでください。反感を抱く方もいらしゃるでしょうが、真実か偽りかこの写真を見て判断してください。私は真実に近いと思ってます。

 

 

 この岸元首相と文先生の初めての出会いと言われていますが、この二人の顔をご覧になって初めての出会いと言えるでしょうか。”岸先生お元気ですか” ”おー君はあの時の青年だったね。その時は世話になった。”と言わんばかりの顔です。

 

 私がある方から入手した資料には、「 ここに、特別入手した岸信介元首相の証言があります。当時は終戦前で戦争をやめるかこのまま続行するかの中にありましたが、東條内閣の総辞職させる動機がここにあった証言が有ります。「 サイパン島が陥落した後のある夏の暑い日に、一人の青年が尋ねてきて、この戦争の背後に共産主義の謀略があると告げられた。それが東條内閣を総辞職させる私の動機となった。 」」 と書いてありました。

 

 

 

 

 

 

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岸先生との29年ぶりの再開

 

岸 信介(きし のぶすけ)ウイキペディアより

 

1944年(昭和19年)7月9日にはサイパン島が陥落し、日本軍の敗色が濃厚となった。宮中の重臣間では、木戸幸一内大臣を中心に早期和平を望む声が上がり、木戸と岡田啓介予備役海軍大将、米内光政海軍大将らを中心に、東條内閣の倒閣工作が密かに進められた。

同年7月13日には、難局打開のため内閣改造の意向を示した東條に対し木戸は、東條自身の陸軍大臣参謀総長の兼任を解くこと、嶋田繁太郎海軍大臣の更迭と重臣の入閣を求めた。東條は木戸の要求を受け入れ、内閣改造に着手しようとしたが、すでに岡田と気脈を通じていた岸が、閣僚辞任を拒否し内閣総辞職を要求する。東條側近の四方諒二東京憲兵隊長が岸宅に押しかけ恫喝するも、「黙れ、兵隊」と逆に四方を一喝して追い返した[6]。この動きと並行して木戸と申し合わせていた重臣らも入閣要請を拒否。東條は内閣改造を断念し、7月18日内閣総辞職となった。

1945年(昭和20年)3月11日、岸は翼賛政治会から衣替えした親東條の大日本政治会には加わらず、反東條の護国同志会を結成した。

 

 

この岸元首相と文先生の初めての出会いと言われていますが、この二人の顔をご覧になって初めての出会いと言えるでしょうか。”岸先生お元気ですか” ”おー君はあの時の青年だったね。その時は世話になった。”と言わんばかりの顔です。

 

ここに、特別入手した岸信介元首相の証言があります。当時は終戦前で戦争をやめるかこのまま続行するかの中にありましたが、東條内閣の総辞職させる動機がここにあった証言が有ります。

 

「 サイパン島が陥落した後のある夏の暑い日に、一人の青年が尋ねてきて、この戦争の背後に共産主義の謀略があると告げられた。それが東條内閣を総辞職させる私の動機となった。 」

 

この写真は1973年11月23日旧松濤本部に来られた時の写真ですが、とても始めての出会いとは思えません。久しぶりに再開した写真でしょう。

 

 

 

 

繆斌(みょうひん)工作--

繆斌(みょうひん)工作を記事にしたかったのですが、私にとってはまだまだ理解が足りません。終戦前の蒋介石の平和工作の内容です。参考にして下さい。



引用先 http://w01.tp1.jp/~a076379471/genzan/E.html

Re:元山ッ子。横山銕三の無念の訴え。「本物だった蒋介石の密使」   kawamura

日付:H17年8月4日(木) 22時3分

 「本物だった蒋介石の密使」読みました。こんな事があったのかと、我々日本人みんなにとって、こんな無念なことはありません。横山銕三氏はよくぞ調べてくれました。ぜひとも皆様にも知っていただきたいのですが、全文は長いのでメモ書きのつもりで要点だけを抜き書きさせて貰います。

 横山銕三氏の略歴

 大正6年生まれ、康徳学院卒。新民会中央訓練所訓練主任をつとめる。この時ミャオピン(中国名で漢字がないので)が所長だった。小磯国昭秘書。高文行政科に合格、朝鮮総督府道警視。終戦後は新潟日報、通産省、電源開発会社などに勤務。定年後はミャオピン工作の真相究明に専念している日中近代史研究家。

 謎に満ちた和平工作 従来の定説

 世界広しといえども、第2次大戦の末期に行われたミャオピン工作ほど謎に満ちた和平工作はあるまい。一体それはどんなものだったのか。その謎の顛末を述べたいと著者は言う。

 あの終戦直前、ソ連軍は日ソ不可侵条約を破り、満州との国境を越えて雪崩の如く攻め込んできたが、当時、すがれるものは藁をもの思いで、ソ連を仲介とした和平工作をしていた最中だったのは周知の通りです。その和平工作に対する返事がなんと宣戦布告だったのです。

 しかし、こんなソ連を通しての和平工作を進めるくらいなら、何故、このミャオピンの和平工作を進めなかったのかと、日本人なら誰もが無念の思いをするに違いありません。

 サイパン島の陥落(1944年6月)で敗戦が決定的となったとき、小磯・米内連立内閣が発足、ここに緒方竹虎(当時、朝日新聞代表取締役)は--ミャオピンと重慶和平をやるために入閣しよう--と入閣決意する。彼は前年、上海でミャオピンと和平について語り、相知る仲であった。緒方が国務大臣兼情報局総裁と聞き、上海から二人の男、田村真作、南部圭助が飛んで帰ってくる。

 田村は朝日の記者で、石原莞爾の主導する「東亜連盟」の熱烈な活動家になった。1939年に北京支局詰めとなり、ここで新民会の創立者ミャオピンに出合う。40年3月ミャオピンが「中国東亜連盟」を旗揚げする。南部は孫文と蒋介石を支援して辛亥革命を成功させ、中華民国建国を実現した頭山満の腹心である。

 緒方入閣を聞き、帰国した田村、南部は鶴岡に隠棲する石原莞爾中将を訪ねる。石原の激励を受けた両名は、緒方、小磯にミャオピン招請の急務を説く。8月14日、田村は小磯・緒方連名の手紙を持って上海へ、1通はミャオピン宛て、1通はミャオピンの上京に飛行機の手配を依頼する松井参謀長宛のものだった。

 これと別に小磯首相は、重慶和平探求のため陸軍の元老・宇垣一成一行と中国通の山県初男を中国に派遣した。これを知って激怒したのは重光葵外務大臣で、これを潰しにかかった。

 ここで長々と小磯・緒方と重光の角逐が述べられているが、工作提案の骨子は、日本軍の自主撤兵と南京国民政府の自発的解消で、緒方は「もはや、聖断を仰いで決するのみ」と小磯に進言、天皇に単独上奏した。しかし、重光は早くから反対意見を天皇に内奏しており、小磯の進言は通らず、上京していた「ミャオピンは中国に帰せ」の聖断となった。これが原因で小磯内閣は総辞職した。

 ミャオピンは4月末、上海に帰り、日本が降伏した翌年5月、蘇州刑場の露と消えた。戦後、重光と今井武夫(反対派の急先鋒)は「銃殺の事実こそ蒋介石と繋がっていなかったことを証明する」と書きまくった。

 と、ここまでが謎とされるこの和平工作に対する従来の定説である。

 ミャオピン工作の真相は

 ところが、中国が戦勝に沸いた1946年春節に、蒋介石が「ミャオピンのいわゆる新民主主義」に対して褒賞金8万元を授与していたという重大な事実が明るみに出た。では何故ミャオピンはその3ヶ月後に銃殺されねばならなかったか?

 それは「東京裁判に提出された木戸日記から、ミャオピンと東久邇宮の会談を知った中国の検事がミャオピンを証人として喚問するかも知れない」と恐れての口封じのためだったというのが真相らしい。

 平成2年、東久邇宮稔彦王殿下は102歳で人生の幕を閉じられたが、残された日記はミャオピン工作を照らす第1級資料で、この日記によれば、3月18日(日)午前11時、ミャオピンが来訪した。「総理が呼んだのに、その前に何故私に面会を申し込んだのか」と宮はミャオピンに問う。それに対する答えは「日本に行ったら雑音の入らぬうちに東久邇宮に拝謁し、蒋主席の意向を伝えるよう申しつけられている。蒋主席はもはや、日本の政治家も軍も信用せず、只、天皇陛下だけは尊敬し、ご信頼申し上げる。しかし、日本では陛下に直接言上することは出来ないので、皇室の御一員たる殿下に拝謁申し上げるようにとの指示であった。蒋は今日、速やかに日支間に和平をもたらすを要すと考え、兄弟牆にせめぐのは一日も早く止めたいとの意見である」と木戸幸一日記に書かれている。ここで宮は「日支全面和平はひとり日支両国の平和を確立するだけではなく、これを基にして蒋介石が音頭をとって、現在の世界大戦を止めさせ、世界平和にまでもっていきたい」と提案すると、ミャオピンは感動を示したと東久邇宮日記に記されている。

 宮は最初会うまでは「相当に警戒していたのだが、会ってみると術策を弄する人ではなく率直に胸襟を開いて話し合えると思った」と語り、ミャオピンは現政局について「米軍は支那大陸に上陸することなく、フィリッピン占領後は必ず沖縄に上陸するから警戒せねばならぬ」と述べ、事実その通りとなった。

 東久邇宮の積極姿勢にも関わらず、ミャオピン工作は進展しなかった。いわく「ミャオピンには肩書きがない。蒋介石の委任状もない。こんな人物では和平交渉は出来ない」と。最高会議でも重光が「小磯の動きは外交大権の干渉だ」といって反対した。

 ミャオピンは「重慶側の意向として、沖縄陥落後、ソ連が満州に侵入すると判断し、一日も早く日支全面和平を達成しなくてはならない」と。しかし、梅津、杉山は面従腹背で動かず。石原莞爾はミャオピン工作の絶対必要を力説、阿南は同感するも、小磯と重光の意見合わず、4月5日、閣内不統一を理由に総辞職を決意する。

 日中和平を議題とした唯一の会議は再開されることなく無為に日は過ぎていった。ミャオピンが蒋主席から与えられた交渉期限は3月末であった。その前日ミャオピンは東亜連盟の同志、石原莞爾に無念の思いと救援の手紙を書いている。

 4月1日の夜、手紙は鶴岡の石原宅に届けられる。石原は同志ミャオピンの求めに応じ、4月3日午後3時に上野に着き、ミャオピンと夕食を共にしながら語り明かし、蒋主席の命令がいかなるものか、携行した資料からも確信を深めた。

 4月4日朝、石原は陸軍で最も信頼できる阿南惟幾大将を訪ねて会談する。阿南は「自主撤兵ならやる。小磯は辞める必要はない。陸軍をミャオピン工作に協力させる」と断言する。田村は、阿南の自動車に同乗して緒方のところに駆けつけたが、一足遅かった。辞表をとりまとめた後だった。

 阿南は辻政信参謀を南京に呼び戻し撤兵を実行させると約束した。事実、辻政信参謀の南京への転属命令は発せられたが、インパールからの敗走の渦中で届かなかった。石原は阿南に会った日の午前11時、東久邇宮を訪ねて会談した。

 以上が幻に終わったミャオピン工作のあらましだが、著者はさらにミャオピンや蒋介石の人物像およびその間柄について語っている。

 蒋介石の真意は

 史家、豊田穣著「孤高の外相重光葵」第7章に「20年2月のヤルタ会談で、米英ソの3国でドイツの戦後処理、ソ連の対日参戦が決定されたばかり。これを知っている蒋介石が、ミャオピンごとき下っ端の仲介に乗るわけはなかった。小磯は画餅に飛びつこうとしたのである」とあるが、豊田のミャオピンに関する記述には夥しい事実誤認があり、その引用文献はお粗末であると著者は断ずる。

 1943年11月、テヘラン会談でスターリンは対日参戦を示唆、蒋夫妻はテヘラン会談に中国を除外したのは米国大統領であると知って、以来ルーズベルト大統領に不信感を持ち、爾来、強く日本との和平に心が動いたと東久邇日記にある。また、モスクワ会談でもスターリンは米特使に対日参戦を約束していた。そこで蒋介石は「ソ連の満州侵入を予見したからこそ、一日も早く中日全面和平を達成しなければならない」と焦慮していたのである。

 蒋介石は満州にソ連が侵入すれば、共産軍が大量の武器を得て強大となる。抗日のために共産軍と合作したが、日本の敗北は近い、日本の敗戦は、中国においてはただちに覇権争奪の内戦になる。米国の同意も要る。ソ連参戦の前に日本の占領地域、満州を譲り受けなければならない。これが蒋介石の苦悩の末の和平工作であった。

 さらに、「中国がアメリカと離れることは出来ないが、中日両国の提携が大東亜のために緊要無二である。故に適時、日本のために発言する用意がある。日本を救うのは予(蒋介石)あるのみ。然るに、日本人が予の真意を疑っているのは遺憾である」との言もある。

 また、蒋介石は石原の思想に共鳴していたという。石原の東亜連盟の思想とは「日中両国の心からの和解によって、初めて日本、満州国、ちゅうごくの提携が可能であるとの信念に基づいて、もし中国が満州の建国を認めるなら、日本は中国に対してすべての権益を返還し、完全撤兵して各国に先じて中国の完全な独立に協力すべきもの」としていた。

 南京政府の駐日大使・蔡培は緒方に、公使・陳伯藩は岡田芳政に「あれは本物であった。惜しかった」と言っている。歴史にもしもは無いのだが、日本の実力者に東久邇宮のような大局の分かる虚心聡明な人がいて、この工作が日の目を見ていたら、歴史は大きく違っていただろう。ソ連の参戦はなく、中国の政情も違っていたろう。また、原爆も、中国残留孤児も、北方領土問題も生じなかったろう。まして、東京裁判史観べったりの歴史観はあり得ない。

 

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