今回は、備忘録代わりの記事。
(また、あんまり、読んでいる方に、わかりやすいように書かないかも。ごめんなさい。)

あいかわらず、バシャールの「エササニ・ストーリー」のセッションが気に入って、そればっかり、毎日聴きまくっている天野です。

例の、ケリーさんとのやりとりの中で、

"A person is an artificial construct."

とバシャールが言ってて、これが、今聴いてて、なんかインパクトを伴って聴こえたので、ブログ記事を書こうと思いました。

これって、(実は)「とんでもない」(笑)ことを言ってますよね。

訳すと、

「人間とは、人工的な(→「恣意的な」ってカンジの意味も含んでいると思います)構造物(構成概念)である。=人間とは、実体のない構成物である。」

というような日本語になります(が、日本語できいても、わけわかめ、でしょうね ^_^; )。

例えば、
ふつう、天野は、「天野紘一」(→ちなみに、本名じゃないけど)という人間が、「自分」だと思っています。
自分が、「天野紘一」という人間だと思って、ふだんの生活を送っています。
「天野紘一」が自分の「全体」だと思っています。

でも、バシャールのような第5密度の存在からみると、
「天野紘一」という人間は、便宜上、「人工的」につくられた、「容器みたいなもの」(魂が、その中に入って、「天野紘一」という役割を演じるための「かぶりもの」のようなもの)として、「見える」のでしょう。(それは、比喩ではなく、本当に、そのようにみえるのでしょう。)
(バシャールは、よく、「パーソナリティ」とか「エゴ」とかは、潜水服のようなものだと言います。
潜水服を着用しているからこそ、人間は、海中の世界に入っていけて、海中の世界を体験することができますものね。)
「天野紘一」という人間は、この「物理的世界」を体験するために、「魂」が(一時的に)着用している潜水服のようなものです。
(あ、もちろん、これは「潜水服」を軽んじたいがための発言ではありません。潜水服には潜水服自体の、独自の、とてもとても大事な存在意義があります。潜水服は、潜水服として尊重されることも大切です。)

「私」という存在の本質は、「天野紘一」ではなく、「魂」のほうなのでしょう。
(ここで、「魂」という表現を使っていますが、これも、便宜的な表現であって、「魂」とはなんぞや?ということも、説明し尽くせないことでありますよね。)(バシャールが「魂」という言葉を使って説明しているわけではありません。天野的な説明の仕方です。)

バシャールは、
「あなたは、毎瞬毎瞬、別の『あなた』(別の人物)になっている」
ということも、よく言います。
これは、なかなか実感を伴って「わかる」のは、難しいコンセプトでありますよね。

→あなたが、自分がなりたいと思っていた自分になったならば、その「自分」は、「あなた」とは、別の過去を持った人間になります、
ということも、バシャールは言います。

今の貴方が、「自分がなりたいと思っていた自分」であるなら、「今の自分」になりたいと思っていた「過去の貴方」は、「今の貴方」とは、異なった人間です。
「今の貴方」は、「過去の貴方」とは、違う過去を持った人物です。
(※『バシャール・ゴールド』という本でも、同じようなコンセプトが紹介されていましたよね。)
「過去の貴方」は、今の貴方とは、別のリアリティ(別のパラレル・リアリティ)に存在しています。

文章で読むと、もう、わけわかめ、でしょうね。(すみません ^_^; )

天野が、自分のことを、「生まれて」からずっと「同一の天野紘一」だと思っているのは、イリュージョンであるとバシャールは言うでしょう。
→それは、地球人たちが(地球に降りてくる前に、もっと高次の次元にいたときに)、collective agreement(集合的な取り決め)によって、便宜的にそう決めたから(第3密度では、物理的存在である「人間」は、ずっと同一の人間であると体験されるようにと決めたから)、そのように体験(認識)されているだけであって、第5密度の観点からは、「人間」は、毎瞬毎瞬、違う存在になっていっている、ということになるんだと思います。


バシャール的には、
私たちが本当にそのように望めば(かつ、集合的取り決めからも自由になれれば)、
人間が、次の瞬間に、「まったく別の人間になる」ことは可能である、ということになるのだろうと思います。

「同一の人物」であると認識されているのは、一瞬一瞬の間に、「ごくわずかの違い」しか生じていないがために、「同一の人物」であると認識されているだけに過ぎない、らしいです。

なかなか、腑に落とすには、突拍子もないように思えてしまう(特に最初は)コンセプトですが、しかし、「自分の望むリアリティをつくる(自分の望むリアリティに移行する)」ということを実践する際には、けっこう有用なコンセプトかも、と(以前よりも、ずっと)天野は思います。

一見、突拍子がないように思えてしまうコンセプトなのですが、
今の地球上で、上記のコンセプトを彷彿させる現象が全く起こっていないかというと、そんなことはなくって、天野には思いつく現象があります。

心理臨床的な現象なのですが。

→すんごくつらい体験を経たあと、人間は、「生まれ変わった」かのように、別人になったかのように、なることがあり得ます。違う人間になったかのように、キャラクターが変わった印象を受けることがあります。
(いわゆる「臨死体験」を経たあとの変容は、その最たるものなのでしょう。)

子ども時代に、長期にわたる虐待を受けていて、解離症状などもみられて、これまでの記憶も一貫していないような人物が、心理療法を受けるなどして、過去のトラウマにまつわる事柄も含めて(取り入れて)、自分の人格を再構成するような作業を長年かけて行うと(そういう過程を経ると)、まったく新たな人物になったかのように、なることもあると思います。
それは、(そのような過程を経る前の自分とは)違う過去を持った自分になった、とも言い得るような現象であるように思います。
(正確には、過去の「捉え方」が変わった、ということになるのでしょうが。)