1.久藤整形外科
あおいろ中学校の正門の脇には、小さな噴水がある。そのまわりのコンクリートはベンチのようになっているので、散歩中に休憩したり、待ち合わせで使われることが多い。時には、夜中に家を抜け出して友達同士がここで落ち合ったり、また酔っぱらいのおじさんが家に帰る途中でひと休みしたりすることもあり、住民の憩いの場所となっている。
そこから歩いて2~3分の所に『久藤整形外科』がある。中学校から一番近いので、学校や部活でケガをした生徒はほとんどがここに通っている。
院長、久藤恒(くどうわたる)先生、30才。悠一とは中学からの同級生で、中学、高校とずっと一緒にサッカーをやっていた。大学も同じ医学部に通い、俗に言う“腐れ縁”の関係だ。3年前にお父さんが亡くなり、後を継いで院長となった。178cmの長身で、モデルのスカウトがくるんじゃないかと思えるほどのイケメンぶり。先生がかっこいいからという理由でここに通っている友達も、その母親もたくさんいる。
でも少したまにきずなのが、お説教が長いことと、ごまかしがきかないこと。次の患者さんが待っていてもそんなことには構わず、両者が納得がいくまで話が延々と続く。納得というのは、患者さんが素直な気持ちになって自分自身の状態をしっかりと把握し、その上できちんと反省し、治療へと進むまでのプロセス。その判断はもちろん先生がするのだが、患者サイドとしては、“面倒くさい”と感じることも多々ある。でも、そんな態度を少しでも見せてしまうとますます長引くことになるから、注意しなければならない。
子供に対しても、その親に対しても容赦なく厳しい言葉をぶつけてくる。それが的を得ているだけあって、グサッと心に突き刺さる。子供がケガをして治療を受けているのに、母親が泣いて診察室から出てくる光景もよく見かける。
空が6年生のとき、陸上で足を痛めてしまい、何事においても呑気な母は、「明日でいいわね。」と言って次の日の夕方、恒の所へ連れて行った。ケガをした時間や様子を詳しく聞かれて、
「何で昨日のうちに連れて来なかったの?充分に来れる時間はあったでしょ。まだ空は小学生なんだから、そういうことは全部、親の責任っていつも言ってるはずだけど。」
と厳しく言われ、大人のくせに泣き虫の楓は、涙をポロポロ流した。
「楓さん、泣いてもダメですよ。痛くて泣きたいのは空の方なんだから。」
海もその場に一緒にいて、
“恒先生、そこまで言わなくてもいいのに。”
と母に同情したのをよく覚えている。
5月GW明けの月曜の朝、海は久藤整形外科の診察室に来ている。昨日のバスケの練習試合で右足首を思いっきりひねってしまい、あまりにも痛いので登校前に診察してもらうことにした。
「これはちょっとひどいから、痛みと腫れが治るまでは部活休んでね。それから毎日診察に来るように。今日は夕方、もう1回来れるかな?」
「はい。」
「海ちゃんはすぐに無理しちゃうけど、自分の体なんだから大事にするんだよ。」
と何だか釘を刺されたような気分。
放課後、部活は休むことにした。もちろん、たかやんには報告済みだ。歩くだけでズキズキ痛むから、さすがにバスケは無理だと思いあきらめた。
「海、足痛くても歌えるでしょ。ストレス溜めない方がいいよ。」
と友達にカラオケに誘われた。部活を休んでカラオケなんて・・・という後ろめたさはあったが、
“たまには息抜きも大事だよね。”
と自分に言い訳をして、友達とワーワー3時間も歌いまくった。
海は朝、恒から言われたことなんて、すっかり忘れていた。お店を出て2歩、3歩と歩いて行くうちに、ズキーンと足首に痛みが走り、そのときやっと、
「夕方もう1回」という言葉を思い出した。
「あー、ヤバッ。忘れてた・・・。」
もうpm8:00を過ぎていて今さらどうしようもないので、明日行ったときに何とかごまかすことにした。
翌日、まだ痛みはあるけれど昨日ほどではなく、我慢すれば走れる気がするぐらい回復した。痛くなったら見学させてもらえば、部活に出れそうだ。今日はたかやんは職員会議で来ないから、
「中途半端な練習するなら帰れ。」
と怒られることもないし、軽めに参加させてもらうようにキャプテンにお願いした。
今日は何としても病院に行かないといけないので、間に合うように早退して、診察時間終了の10分前に受付をした。すぐに診察室に呼ばれ、少し大げさに右足を引きずりながら中に入った。海はいつも通り、
「お願いします。」
と言ってイスに座ったが、恒は無言のままカルテから海の足へ目を移すと、右足首を触診した。
広い診察室全体が、いつもと違う重い空気に包まれていた。険しくて、冷たい恒の目を見て、
“恒先生、怒ってるよね?昨日の夕方来れなかったこと・・・。”
長く続く沈黙に耐えられず、最初に口を開いたのは海だった。
「先生、昨日は学校で委員会があって、どうしても診察時間に間に合わなくて・・・。」
恒は何も言わない。
「今日は少しよくなってる感じで、あっ、でも部活はやらないで見学してました。」
と言い終わると、海は恐る恐る恒の顔をのぞき込んだ。表情ひとつ変えない恒の様子を見て、
“わぁー、言わなければよかったかも・・・。”
とすぐに後悔の念にかられた。
“よくもまあ、うそにうそを重ねて・・・。”
と恒の怒りはますます大きくなっていき、カルテに『自爆』と記入していた。
「先生・・・?」
恒は腕を組んで
「うーん・・・」
とうなり考え込むと、カルテに何か書き込んだ。
『うそ→おしおき→たっぷり泣かせる→反省』
書き終わると
「はい、じゃあ終わり。」
突然笑顔になり、海はどう反応していいのか分からずに、診察室から出て待合室のソファに座った。
“いつもみたいに「調子どう?」って聞かれなかった。でも最後のあの笑顔はOKってことだよね?”
会計を済ませると、受付の下田さんが、
「海ちゃん、先生がお薬出すから診察全部終わるまで、もう少し待っててって。」
「はい、分かりました。」
患者さんは後、お母さんと男の子の1組が待っているだけだった。その親子が呼ばれて診察室の中に入って行くと、待合室にいるのは海1人だけとなり、何だかものすごく心細くなって、この場にいるのが怖くなってきた。妙に嫌な予感がする。
“やっぱり、委員会ってうそついたのバレてるのかな?恒先生にうそは通用しなかったかも・・・。”
このまま飛び出して家に帰ったら、悠一に連絡されて、ますます大変なことになるだろう。でも、とにかくここから逃げ出さなきゃいけない気がして、カバンを持ってドアを開けたとき背後から声がした。
「こらっ!海ちゃん、何してるの?待ってて、って言ったよね。何で言うこと聞けないのかな。まったく困った子だ・・・。」
そのまま肩をつかまれクルッと回れ右させられると、怖い顔をした恒ににらみつけられた。
「どうして帰ろうとした?」
下を向いて黙っていると、
「海ちゃん、ちゃんと話をしてもらおうか?」
「・・・」
「海ちゃんっ!」
「だって、恒先生怒ってて怖かったんだもん・・・。」
「だからって逃げ出したら、もっと怒らなきゃいけなくなるよね?」
「・・・」
「悪い子にはたっぷりおしおきだからな!」
「・・・ご、ごめんなさい。先生許して。いい子にするから。」
「うーん、ちょっと遅かったかな。ここ何日かの分、きっちり反省してもらわないとな。」
「えー・・・。」
そんな会話を最後に診察を受けた小学校1~2年生ぐらいの男の子と、そのお母さんに聞かれていたことに気づいた海は、顔を赤くして待合室のソファに座った。こともあろうか、その無邪気な男の子は
「ママ、あのお姉ちゃん、おしおきされちゃうの?」
ママは戸惑って、
「しーっ。」
と男の子の言葉を遮ろうとした。
恒は笑いをこらえて、
「陽くん、お姉ちゃんね、悪いことしちゃったから、これから先生にお尻ペンペンされるんだよ。」
“えっ?お尻ペンペン?恒先生、うそだよね?そんなことお願いだから、見ず知らずの人に言わないで・・・。”
「キャー、お姉ちゃん、かわいそう。」
「陽くんも悪い子のとき、ママにお尻ペンされるだろ?」
陽はママの方をチラッと見て
「・・・うん。」
と答えた。
「そういうとき、どうしたらママ許してくれる?」
「えっとね、ごめんなさいっていっぱいあやまって、もうやらないからって言うと、お尻しまって頭いい子いい子してくれる。」
「そうか、陽くんはまだ1年生だから、怒られることいっぱいあるかもしれないけど、このお姉ちゃんはもう中学1年生だから、いつまでもお尻ペンペンされてたら恥ずかしいよな?」
「うん。でも悪いことしちゃったから、しょうがないよね。」
「偉いな、陽くんは。」
と言って、恒は陽の頭を撫でた。
海は、“恒先生、大っ嫌い!”と心の中で叫んだ。
会計を済ませると、ママは申し訳なさそうに海に会釈をして、息子の手を引いて帰って行った。
“恒先生ってば、何であんなガキんちょに私のおしおき宣告するのよ!しかもお尻ペンペンなんて冗談でしょ・・・。”
と口を尖らせてムッとしていると、
「あーあ海ちゃん、怒っちゃったかな?あんな小さな子と同じように、お尻叩かれちゃうんだもんね。そりゃあ、恥ずかしいよなー。」
と言いながら、海を診察室に誘導しベッドに座らせた。
つづく