20220607

 

沖縄から見えるウクライナ戦争」

                ―沖縄戦から見えること―

 

1 沖縄戦の記憶

 

沖縄復帰50年の今年、NHKテレビ・ラジオは、沖縄戦や沖縄復帰の直接的関係者の「生の声」の録画、録音を連日報じています。これらの人たちの多くは、既に故人となっています。

 

1941年生まれの私は、ごく断片的なアジア太平洋戦争の記憶しか持っていません。それでも、神風特攻隊隊員として従兄弟の一人沖縄の海に散っていったことや、東京空襲の恐ろしさについては、戦後母からよく話を聞いていました。その後外務省現役時代に沖縄担当大使の機会を得た際には、南部戦跡を何度も訪れ、自分なりに沖縄戦の追体験を重ね、また、沖縄復帰の今日的意義を考えていました。

 

ことしの2月24日突如ロシアがウクライナ侵略を開始してから既に3カ月以上が経ちます。1945年3月23日に「ひめゆり学徒隊」が動員され、240人の女学生が母校の裏門から南風原(はえばる)陸軍病院に向かって歩き始め、6月18日に学徒隊が解散命令を受けるまでの3か月間、献身的に働きました。その後23日の陸軍の組織的な戦闘が終了するまでのわずか数日の間に、学徒隊の犠牲者は、解散命令を受ける前の9倍にも及んだと伝えられています。

 

沖縄の人たちは、長期化が予想されるウクライナ戦争の下で無辜の住民が殺戮されている様子を知って、かつての学徒隊隊員や戦場を逃げ回っていた一般住民の運命と重ね合わせて何を思うでしょうか?長い間平和の環境の下にある私たち日本人にとって、戦争は遠い存在となりました。沖縄、広島、長崎など戦争記憶継承の努力が続けられている地域を除いて、私たち日本人の多くは、「戦争」と言う言葉を聞いても、正直実感が湧いてきません。

 

沖縄戦から見えるウクライナ戦争とは何であるかについて、改めて考えてみる必要があります。

 

2 ウクライナ戦争の本質

 

戦争ほど個人と国家との関係について深く考えさせられることはないでしょう。ロシアによる隣国ウクライナに対するあからさまな侵略を目の当たりにして、先ず思うことは、戦争の早期終結でしょう。しかし、その前に、歴史を思い起こし、想像力を働かせることが必要です。

 

かつて日本は国策を誤り、中国などアジアの近隣諸国を侵略し、アジア・太平洋戦争に突き進んでいきました。何故あのような「狂気」に駆られ、精神力を頼りに無謀な戦争を始めてしまったのでしょうか?激しい戦争に明け暮れし、多くの自国民や他国民を死に追いやった当時人たちの多くは、敗戦した途端に侵略の史実を棚上げし、自分たちは戦争の犠牲者であるかのように振る舞いました。

 

確かに日本人戦没者310万人の多くは犠牲者でした。一方、日本が侵略の当事者であったことを棚上げし、侵略の犠牲者であったかの如く振る舞って恥じなかった人たちは、子や孫、ひ孫の世代に戦争の本質から目を避けさせる大きな要因を作りました。沖縄、広島、長崎の方々は、ウクライナ戦争の本質をどのように捉えているでしょうか。

 

プーチン大統領の指導の下、ロシアが隣国ウクライナの主権を武力で侵害し、ゼレンスキー大統領の指導の下、ウクライナ国民が祖国防衛のために武器を取って戦っているということが、ウクライナ戦争の本質です。ロシアがウクライナを侵略しているのであって、ウクライナがロシアを侵略しているわけではありません。岸田文雄内閣が強力にウクライナ支援を展開し、自らの防衛努力と日米同盟維持の重要性を国民に訴えていることは、ウクライナ戦争の本質から見て、正しい政策であると考えます。

 

勿論、両国の兵士やボランティアたちを個々人として捉えるならば、一般住民と同じく「戦争の犠牲者」です。国の命令に受動的に従う人や積極的に受け入れる人の違いはあるでしょうが、戦争が始まってしまえば、個々の人たちの命はまことにはかないものです。連日テレビなどで報じられる犠牲者の様子は、おぞましいものです。ウクライナから遠く離れた日本人は、あたかも劇場にいるかのように戦闘の模様を眺め、かなり勝手な批評を口にしていますが、ロシア側も、ウクライナ側も、武器を捨てる気配を全く見せない様子をよく理解できないのではないでしょうか?「命どぅ宝」(沖縄方言:ぬちどぅたから)(「命こそ宝」の意味)は、ウクライナ戦争に当てはまらないのであろうか、と思う人も多いことでしょう。

 

3 政治指導者と国家の区別

 

初歩的なことですが、改めて政治の責任を負う指導者と国家とを分けて考えることが重要になります。ウクライナ戦争は、広く「プーチンの戦争」と言われているように、同大統領の独断で始められたものです。同氏は冷酷な政治家であり、個人の死を悼む気持ちは持ち合わせていません。同氏がエリツィン大統領の下で首相に任命したときは、これほど冷酷に成り得るとは、世界の多くの人たちは、予想もしていませんでした。しかし、今やスプーチン大統領が、スターリンも顔負けするような冷淡な国家指導者で、最高権力の保持を最重要視する政治家であることは明らかです。

 

プーチン大統領は、ロシア兵に多大な犠牲者が出ることも意に介せず、民主主義諸国に対し核兵器使用の脅しをかけつつ、ロシアを侵略に駆り立てています。ロシア国民が「ノー」を突き付けない限り、同氏は大統領職にとどまり続けるでしょう。

 

片やゼレンスキー大統領は、国民からの熱い支持を受けています。戦況は決してウクライナ軍に有利であるとは言えませんが、民主主義諸国側からできる限り最新の武器供与を受けつつ、徹底抗戦を続けています。ウクライナ国民が同大統領に停戦交渉のテーブルに着くよう圧力をかける姿勢は示していません。ロシア軍の士気の低さと対照的に、ウクライナ国民の祖国防衛意識は高いままで推移しています。

 

民主主主義と人道主義に立つバイデン政権は、徐々に陰りを見せてきています。2010年の大統領選挙以降も分断されたままのアメリカでは、ことしの秋、中間選挙を迎えます。民主党は、議席数を大きく減らすとも予想されています。アメリカ国民の関心事は、ウクライナ戦争ではなく、経済問題です。足元が揺らぎつつあるバイデン大統領は、共和党の勢いに負けないため、ウクライナ戦争のフォロー.にどれほどの注意力を注ぎ続けることができるのか、疑問も出てきます。

 

かつてベトナム戦争が泥沼化したころ、米国民の多くがこの戦争に大義はないと主張し、戦争終結を求めて全米規模で抗議運動が展開しました。当時ホーチンミン政権は、ソ連などから大量武器を供与して貰い、結局超大国アメリカに撤兵を余儀なくさせました。

 

また、かつてフセイン大統領が大量破壊兵器を生産している誤解し、米英が主導権を握って同大統領を死に追い詰めましたが、アメリカの大統領もイギリスの首相も湾岸戦争の政治責任を問われることはありませんでした。

 

こうした事例を見ると、プーチン大統領がウクライナ侵略をしたからと言って、同氏に政治責任を負わせることはできないと考える人がいるかもしれません。ここでは問題を二つに分けて考えることが重要です。

 

4 為政者の政治責任

 

為政者の政治責任については、大別して次の二つの観点が重要になります。

 

第1は、内政不干渉という厳しい国際社会の現実です。

 

世界政府が実現していない国際社会には、越えがたい国家主権の壁があることを認めざるを得ません。第3国がロシアの内政に干渉し、体制の変革を求めることは現実的ではなく、バイデン大統領も再三にわたり、ロシアの国家体制の変革は求めないと述べています。プーチン体制の存続を認めるか、退陣に追い込むかは、あくまでもロシア国民の手に委ねられます。

 

一方、国際的な機関が、プーチン大統領のとどまるロシアに対して、活動を認めないことは可能です。現に国連の圧力により、ロシアは自ら国連人道委員会からの脱会を選択せざるを得ませんでした。こうした国際ボイコットは今後とも広まっていくことでしょう。この一環として、国連加盟民主主義諸国は、プーチン大統領が現職に留まる限り、安全保障委員会へのロシア政府代表の出席を歓迎しないとの国連総会決議を通すことも、真剣に検討すべきでしょう。

 

第2は、ロシアの人権侵害やプーチン大統領の国際刑事法違反容疑についてです。

 

現在関連国際機関において、調査に手が付けられ始めています。最終的にどこまで調査が進められ得るか、どこまで刑事的責任を追及することが可能かは不明です。プーチン大統領の国連憲章違反やロシア軍による犯罪行為の実態究明作業が進むことは、主権国家から構成される国連の活動を存続させる上でも、大きな意義があると考えるべきです。

 

私たち国民は、これら2点について、岸田内閣に国際協力を進めるように声を高めて7いくべきであると考えます。

(以下次号)